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最高裁判所第一小法廷 昭和56年(行ツ)37号 判決 1988年12月08日

上告人

福岡県地方労働委員会

右代表者会長

倉増三雄

右参加人

北九州市交通局労働組合

右代表者執行委員長

川原憲治

右訴訟代理人弁護士

石井将

谷川宮太郎

市川俊司

雪入益見

被上告人

北九州市

右代表者北九州市交通事業管理者交通局長

栗本芳郎

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告参加代理人石井将、同谷川宮太郎、同市川俊司の上告理由第一点について

論旨は、地方公営企業職員につき争議行為を禁止した地方公営企業労働関係法(以下「地公労法」という。)一一条一項の規定は憲法二八条に違反しないとした原判決は、憲法二八条の解釈適用を誤ったものである、というのである。

地公労法は、現業地方公務員たる地方公営企業職員の労働関係について定めたものであるが、同法一一条一項は、「職員及び組合は、地方公営企業に対して同盟罷業、怠業その他の業務の正常な運営を阻害する一切の行為をすることができない。また、職員並びに組合員及び役員は、このような禁止された行為を共謀し、そそのかし、又はあおってはならない。」と規定し、これを受けて同法一二条は、地方公共団体は右規定に違反する行為をした職員を解雇することができる旨規定し、また、同法四条は、争議行為による損害賠償責任の免責について定めた労働組合法八条の規定の適用を除外している。しかし、地公労法一一条一項に違反して争議行為をした者に対する特別の罰則は設けられていない。同法におけるこのような争議行為禁止に関する規定の内容は、現業国家公務員たる国の経営する企業に勤務する職員(以下「国営企業職員」という。)及び公共企業体職員の労働関係について定めた公共企業体等労働関係法(昭和六一年法律第九三号による改正前のもの。以下「公労法」という。)におけるそれと同一である。

ところで、国営企業職員及び公共企業体職員につき争議行為を禁止した公労法一七条一項の規定が憲法二八条に違反するものでないことは、当裁判所の判例とするところであるが(昭和四四年(あ)第二五七一号同五二年五月四日大法廷判決・刑集三一巻三号一八二頁、名古屋中郵事件判決)、この名古屋中郵事件判決が右合憲の根拠として、国営企業職員の場合について挙げている事由は、(1) 公務員である右職員の勤務条件は、国民全体の意思を代表する国会において、政治的、財政的、社会的その他諸般の合理的な配慮を経たうえで、法律、予算の形で決定すべきものとされていて、労使間の自由な団体交渉に基づく合意によって決定すべきものとはされていないこと、(2) 国営企業の事業は、利潤の追求を本来の目的とするものではなくて国の公共的な政策を遂行するものであり、かつ、その労使関係には市場の抑制力が欠如しているため、争議権は適正な勤務条件を決定する機能を充分に果たすことができないこと、(3) 国営企業職員は実質的に国民全体に対してその労務提供の義務を負うものであり、その争議行為による業務の停廃は国民全体の共同利益に重大な影響を及ぼすか、又はそのおそれがあること、(4) 争議行為を禁止したことの代償措置として、法律による身分保障、公共企業体等労働委員会による仲裁の制度など相応の措置が設けられていること、の四点に要約することができる。

そこで、名古屋中郵事件判決が右合憲の根拠として挙げた各事由が地方公営企業職員の場合にも妥当するか否かを検討する。

地方公営企業職員も一般職の地方公務員に属する者であるが、一般職の地方公務員の勤務条件は、国家公務員の場合と同様、政治的、財政的、社会的その他の諸般の合理的な配慮により、国民全体の意思を代表する国会が定める法律及び住民の意思を代表する地方議会が定める条例、予算の形で決定されるべきものとされているのであって、そこには、私企業におけるような団体交渉による決定という方式は当然には妥当しないというべきである(最高裁昭和四四年(あ)第一二七五号同五一年五月二一日大法廷判決・刑集三〇巻五号一一七八頁(岩手県教組事件判決)参照)。そして、このような一般職の地方公務員の勤務条件決定の法理について、地方公営企業職員の場合のみ別異に解すべき理由はない。現行法規上、地方公営企業職員の勤務条件の決定に関しては、当局と職員との団体交渉を経てその具体的内容の一部が定められることが予定されており(地公労法七条)、しかも、条例あるいは規則その他の規程に抵触する内容の労働協約等の協定にもある程度の法的な効力ないし意義をもたせている(同法八条、九条)などの点において、団体交渉が機能する余地を比較的広く認めているが、これは、憲法二八条の趣旨をできるだけ尊重し、また、地方公営企業の経営に企業的経営原理を取り入れようとする立法政策から出たものであって、もとより法律及び条例、予算による制約を免れるものではなく、右に述べた一般職の地方公務員全般について妥当する勤務条件決定の法理自体を変容させるものではない。

次に、地方公営企業の事業についても、その本来の目的は、利潤の追求ではなく公共の福祉の増進にあり(地方公営企業法(以下「地公企法」という。)三条)、かつ、その労使関係には市場の抑制力が働かないため、争議権が適正な勤務条件を決定する機能を十分に果たすことができないことは、国営企業の事業の場合と同様である。

また、地方公営企業職員が実質的に住民全体に対しその労務提供の義務を負っており、右職員が争議行為に及んだ場合の業務の停廃が住民全体ひいては国民全体の共同利益に少なからぬ影響を及ぼすか、又はそのおそれがあることも、国営企業職員の場合と基本的には同様である。もっとも、地公労法の適用される地方公営企業は、法律上具体的に列挙されているものに限定されず(地公労法三条一項)、その種類、内容、規模等には、種々のものが含まれうるが、その事業は、あくまでもその本来の目的である公共の福祉を増進するものとして、公益的見地から住民ないし国民の生活にとって必要性の高い業務を遂行するものであるから、その業務が停廃した場合の住民ないし国民の生活への影響には軽視し難いものがあるといわなければならない。

更に、争議行為を禁止したことの代償措置についてみるに、地方公営企業職員は、一般職の地方公務員として、法律によって身分の保障を受け、その給与については、生計費、同一又は類似の種類の国及び地方公共団体の職員並びに民間事業の従事者の給与その他の事情を考慮して定めなければならないとされている(地公企法三八条三項)。そして、職員と当局との間の紛争については、国営企業職員及び公共企業体職員についての公共企業体等労働委員会(現国営企業労働委員会)のような特別の紛争処理機関は設置されていないものの、労働委員会によるあっ旋、調停、仲裁の途を開いたうえ、一般の私企業の場合にはない強制調停(地公労法一四条三号ないし五号)、強制仲裁(同法一五条三号ないし五号)の制度を設けており、仲裁裁定については、当事者に服従義務を、地方公共団体の長に実施努力義務を負わせ(同法一六条一項本文)、予算上資金上不可能な支出を内容とする仲裁裁定及び条例に抵触する内容の仲裁裁定は、その最終的な取扱いにつき議会の意思を問うこととし(同法一六条一項ただし書、一〇条、一六条二項、八条)、規則その他の規程に抵触する内容の仲裁裁定がなされた場合は、規則その他の規程の必要な改廃のための措置をとることとしているのである(同法一六条二項、九条)。これらは、地方公営企業職員につき争議行為を禁止したことの代償措置として不十分なものとはいえない。

以上によれば、名古屋中郵事件判決が公労法一七条一項の規定が憲法二八条に違反しないことの根拠として国営企業職員の場合について挙げた各事由は、地方公営企業職員の場合にも基本的にはすべて妥当するというべきであるから、地公労法一一条一項の規定は、右判決の趣旨に徴して憲法二八条に違反しないことに帰着する。論旨はひっきょう、名古屋中郵事件判決の立場とは異なる独自の見解を前提として原判決を論難するものであって、採用することができない。

同第二点について

論旨は、上告参加人の労働基準法三六条所定の協定(以下「三六協定」という。)締結、更新の拒否による本件超勤拒否闘争が地公労法一一条一項の禁止する争議行為に当たるとした原判決は、法令の解釈適用を誤り、かつ、判例違反を犯すものである、というのである。

原審の適法に確定した事実関係は、(1) 上告参加人は、被上告人の提示する本件財政再建計画の実施を阻止するため、昭和四二年六月一〇日ころ、組合員の投票によってストライキを行うことを決定し、これを受けて、上告参加人の戦術委員会は、同月二一日から二三日まで超勤拒否闘争を、同月二七日から同年七月一日まで超勤拒否闘争及び安全点検闘争を、同年七月三日に超勤拒否闘争及び一斉休暇闘争を行うことを決定した、(2) 被上告人経営のバスの運行ダイヤは、労使の委員によって構成されるダイヤ編成審議会の議を経て定められていたが、当時の公示ダイヤは、上告参加人の同意のもとに一日九勤務が時間外勤務ダイヤとして編成されており、被上告人の交通局においては、このダイヤを実施するために超過勤務が恒常化していて、超過勤務拒否があれば、平常のダイヤ運行に支障を来す状況にあった、(3) 右運行ダイヤを実施するため、被上告人と上告参加人との間において従来から三六協定が締結、更新されてきたが、上告参加人は、本件財政再建計画についての労使の交渉が難航することが予想されるようになった同年四月ころから、同協定を一日ないし数日の期間を定めて締結、更新しつつ事態の推移をみていたところ、同年六月一五日本件財政再建計画案が市議会に上程されるや、前記戦術委員会の決定どおり超勤拒否闘争を行うこととし、バスの正常な運行のための同協定の締結、更新方の当局の要望を拒否して、右決定に係る期間各部門において組合員に時間外勤務を拒否させた、というのである。

これによれば、被上告人の交通局においては、従来から上告参加人同意のもとに三六協定の締結、更新を前提とした超過勤務が平常勤務として組み入れられてきたところ、上告参加人は、当該超過勤務自体に関する勤務条件については格別の要求を有していた事情は認められないのに、本件財政再建計画の実施阻止という要求を貫徹するための手段として、三六協定の締結、更新を拒否し、組合員に時間外勤務を拒否させて本件超勤拒否闘争を実施したということになるから、右超勤拒否闘争は、地公労法一一条一項の禁止する争議行為に当たるものといわなければならない。これと同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。また、所論引用の判決は、事案を異にし、本件に適切でない。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官佐藤哲郎 裁判官角田禮次郎 裁判官大内恒夫 裁判官四ツ谷巖 裁判官大堀誠一)

上告参加代理人石井将、同谷川宮太郎、同市川俊司の上告理由

第一点 地方公営企業労働関係法(地公労法)一一条一項は憲法二八条に違反する違憲・無効の法令である。

然るに、地公労法一一条一項を合憲と判断した原判決は憲法二八条の解釈に誤まりがあり、当然に破棄されなければならない。

今日まで地公労法一一条一項について、憲法二八条適憲性を真正面から論じた最高裁判例は存在しない。

原判決は、国家公務員や地方公務員ないし三公社五現業職員に対する争議行為禁止規定を合憲とした最高裁判決に従い、地公労法一一条一項についてほとんど論拠らしい論拠を示さず、この合憲性を承認した。

我々は、以下詳述するとおり原判決が依拠した最高裁判決はその論理において全く説得力がなく既に破綻したものと考える。

我々はそこでここに争点を違憲論に集中し最高裁の再考を望みたい。

いたずらに先例にとらわれることなく、最高裁判例に加えられた批判の声に謙虚に耳を傾けられ、口頭弁論を開いて十二分に審理を尽されることを望むものである。

※ なお、本論で引用する最高裁判決については、次の通り略称する。

一〇・二六(中郵)判決  最高裁昭和四一年一〇月二六日全逓東京中郵事件大法廷判決

四・二(都教組)判決  最高裁昭和四四年四月二日都教組事件大法廷判決

四・二五判決  最高裁昭和四八年四月二五日全農林警職法事件大法廷判決

五・二一判決  最高裁昭和五一年五月二一日岩手教組学テ事件大法廷判決

五・四判決  最高裁昭和五二年五月四日全逓名古屋中郵事件大法廷判決

第一章 地公労法一一条一項違憲

一、争議権とその制約

(一) 争議権保障の意義

1 争議権の本質

労働者の団結・団体行動(争議行為)、そして、労働基本権の保障は、労働者のこの資本主義社会で生きてゆくための手段として歴史的に生成発展し、憲法に法認されたものであった。

公務員の争議行為禁止を合憲とする佐藤教授も、「何故にこれら三つの権利(労働基本権)が生存権的基本権として認められるに至ったかについて特に詳説する必要はないであろうが、それは要するに資本主義経済の発展の必然的結果として使用者に対して経済的弱者たる地位にある労働者に団結して交渉する権利を与えることによって労使間の契約締結の際の実質的不平等を除去し実質的対等の関係を確保せしめようとするにある。」(ポケット憲法一九〇頁)と論じている程この点は自明の事柄である。

団結や団体行動の必要性が生存権の主張と不可分の関係に立つのは、まさに資本主義的労働関係の特性に根ざすものであり、その故にこそ「憲法二八条の保障する勤労者の団結権等は、立法その他国政の上で最大の尊重を必要とし、みだりに制限することの許されないもの」(最高裁昭和四〇・七・一四大法廷 和教組専従事件判決)なのである。

即ち、「憲法二八条は、いわゆる労働基本権、すなわち勤労者の団結する権利および団体交渉、その他の団体行動をする権利を保障している。この労働基本権の保障の狙いは、憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で憲法二七条の定めるところによって勤労の権利および勤労条件を保障するとともに他方で憲法二八条の定めるところによって経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段としてその団結権・団体交渉権・争議権等を保障しようとするものである。」(昭和四一年・一〇・二六大法廷 全逓争議事件判決、最判集二〇巻八号九〇五頁)と、最高裁自ら宣言しているとおり、労働基本権(争議権)は、労働者の人間らしく生きていくための必要な諸条件を実現する唯一不可欠の根源的な基本権なのであり、その事の故に、労働者はいかに弾圧されようとも団結し、争議行為に訴えることをやめようとしなかったのである。争議行為は、この資本制社会にあっては決して放棄することのできない、従って如何に法律で剥奪しようとも決して押えつけることのできない根源的な権利なのであり、右最高裁判例もそのことの率直な表明・承認と理解しなければならない。

従って、争議権は手段的権利だから立法上制限されてもよい、争議行為は「公共の福祉」に反する場合は立法上これを禁じても差し支えない、などと十把一からげに片付けてしまうのは、甚々しい謬論である。手段的権利であっても、これがその社会の本質に直結するものである場合には、それが絶対に保障されることがあるということは、歴史が証明している。財産権・所有権は本来の手段的権利であるが、ブルジョア革命後はそれが神聖不可侵であるとされたことは端的な例である。我が憲法が二〇世紀的憲法として社会権的基本権思想を付与しようとすれば、労働者の三権に絶対的な保障を与えてはならないという論理必然性はない。むしろ労働者の基本権と財産権とは二八条・二九条に二つ並んで規定されながら、一方には限定が付されていないのであるから(有泉亨「労働争議権の研究」九七頁〜九八頁)。

2 労働三権の不可分一体性

然るに、我国現行法は、官公労働者の争議権を明文で全面的に剥奪している。この現行法の建前の詳細な法理論的考察は後に検討するが、労働基本権に対する取扱いとして妥当とは考えられない。団体行動とりわけ争議行為の裏付けのない団結権の保障ということは、組合運動の歴史と労働基本権の生成の事実と論理に全く相入れないからである。

団結権・団体交渉権・争議権は、総称して労働基本権あるいは一口に団結権と一般に呼ばれているように、各々が独立の権利であると同時に相互に関連した不可分一体の権利としての実態を持っている。

憲法二八条の労働基本権保障も、もとより団結権・団体交渉権・争議権を不可分一体の権利として法認したものに他ならない。

従って、団結権・団体交渉権を保障したとしても、争議権を剥奪もしくは制限するならば、それはもはや労働基本権を保障したといえないことはもとより、団結権・団体交渉権をも保障したことにならない。即ち、労働者が団結するのはその要求を貫徹するにある。その要求は資本家との交渉(団体交渉権の行使)によって実現される。然しながら、団体交渉が所謂交渉と異なっているのは、それが争議権という労働者の実力行使を背景に予定している点にあり、労働者がその実力行使を背景にして、はじめて労使が対等の立場に立つとするのが労働基本権保障の建前なのである。沿革的にも団結権・団体交渉権・争議権とは本来区別なく密接不可分のものとして把えられ、行使されてきたのであった。

従って、団体交渉権が保障されなければ、どんなに団結権が保障されていたとしても、その団結権は団体交渉権を欠くが故に真の実効力あるものとはいえず、又、争議権に裏打ちされない団体交渉権の本来的特性である労働者の実力行使(争議行為)の背景を欠くものであるから、対資本家との交渉権は極めて弱体化されたものとされ、交渉権ひいては団結権も真に保障されたものとはなりえない。

このように、争議権の剥奪ないし制限は、実質的には団結権・団体交渉権それ自体をも剥奪・制限されるに等しく、従って、労働基本権そのものが一体として制限・剥奪されると同様の結果となる。

労働基本権は、労働者が人間としての生存するうえにおいて不可欠唯一の権利として歴史的・社会的に形成・確立せられた権利であるから争議権の制限・剥奪は、労働者の人たる不可欠の権利そのものの制限・剥奪を意味する。

(二) 争議権制約の法理

1 「禁止」と「制限」は本質的に異なる。「禁止」というのは文字通り立法によって人権の行使を全面的に禁止するものであり、「制限」は人権を認めたうえで、その行使にあたって個別的具体的に制約することを意味する。

先ず右の区別を明確にさせておくことが緊要である。

(なお、ここで「制約」といった場合は「禁止」と「制限」を含めた概念として用いる。)

2 基本的人権一般の制約の法理

基本的人権は憲法上「侵すことのできない永久の権利」(一一条)として保障されている。このことは憲法上基本的人権が最優位の価値を与えられていることを意味する。

しかし、このように憲法上重要な意義を有する基本的人権といえども絶対的に無制約のものではありえない。思想、良心の自由など個人の内心にかかわる自由を除けば、それ以外の基本的人権はその行使によって他の人権と衝突する場合があり得るから、そのような場合には、相衝突する基本的人権の間に調整がはかられなければならないであろう。このような基本的人権間の調整というのは、個人の基本的人権は最大限尊重しなければならないという要請にもとずいているのであるから、いわば全ての国民に基本的人権を保障したことから当然に要請されるものであって、その意味で基本的人権に内在する制約であるといってよい。

しかし、基本的人権に内在的制約があるといっても、その制約は安易に認められるものではない。憲法自身が基本的人権に最優位の価値を認めているのであるから、そのような人権を制約する根拠となるのは他の人権だけであると考えることもできるし、少なくとも個々の国民の具体的な権利、利益を超越した抽象的な利益(例えば、一〇・二六判決は「国民生活全体の利益」を論じているのに対し、四・二五判決は「国民全体の共同利益」として抽象化していることは問題である。)のようなものを根拠にして制約を認めることは許されないといわなければならない。

基本的人権の制約のうち、個別の場合に人権の行使を制限するのと違って、ある人権の行使を全面的に禁止する場合(官公労働者の争議行為の全面一律禁止はこの場合にあたる)には、その制約の場合とは質的にちがっている。

即ち、憲法上保障された人権の行使を全面的に禁止する根拠となり得るのは他者の人権をおいてほかにあり得ない。しかも、他の人権と衝突、矛盾をきたすとしても、そのこと故にただちに禁止が肯認されるわけではない。他の人権と衝突、矛盾する場合でも、その両者の衝突を調整するために個別的にその人権の行使を制限するという他の手段、方法がある場合には、憲法が人権を保障した意義に照らし、より制約の少ない手段、方法をとるべきであって、他に制限する手段、方法があるにもかかわらず、ただちに人権の行使を全面的に禁止するならば、その制約は違憲であるといわざるを得ない。

つぎに、基本的人権の行使を一定の場合に個別的に制限する根拠についてみても、制限の場合は全面的な禁止とちがってその制約の程度は低いから、相衝突する人権間の調整のためには禁止の場合に比べると一般的にいえば合理性をもち得るであろう。但し、そうはいっても、基本的人権の尊重に最優位の価値を認めている憲法の建前からいって、安易に制限が認められるわけではない。なぜなら、ある人権の行使によって他の人権が侵害されることがあるとしても、その他人の人権の侵害が具体的に想定されるか、または、侵害のおそれが蓋然性をもって想定される場合にはじめて相衝突する人権間の調整という意味である人権の行使を制限することが許されるからである。

さらに、制限の必要性が是認される場合でも、具体的な制限の手段、方法はいくつも考えられるし、また、他の人権が侵害される態様や程度もさまざまである。従ってとりうる制限の手段、方法は他の人権が侵害される態様や程度に応じて当然異なるわけであり、制限される人権の価値と制限によって受ける他者の利益とを合理的に衡量して制限の手段、方法は決められなければならない。この場合も、前述した基本的人権に重要な価値を認めた憲法上の要請からして、人権の行使を制限する手段、方法は必要最小限度のものに止められるべきである。一〇・二六判決は労働基本権の制限について必要最小限度原則を明らかにしたが、この考え方は労働基本権に限らず、他の基本的人権一般についても当てはまるものであり、基本的人権を保障する各国憲法の基本的な解釈原理として承認されているところである。

なお、このような観点からの人権制限の合憲性審査の基準として、「より制限的でない他の選びうる手段」の基準(LRAの基準)は十分に参考に値するものであろう。

3 争議権制約のあり方

基本的人権の制約について論じたところは、労働基本権とりわけ争議権の制約についてもそのままあてはまる。ただ、次の点が制約を考える際の重要な視点として考えられるであろう。

(イ) 先ず、憲法が労働者に争議権を保障した意義を十分にふまえて相衝突する人権間の調整を考えなければならない。即ち、争議権行使によって侵害される権利・利益と比較衡量されるのは憲法上保障されている争議権であって、その比較衡量の一方にある争議権は憲法上の価値序列の面でも生存権的基本権として高い価値を与えられていることを認識しなければならない。

(ロ) 争議権は、その権利の性質上、社会生活の場において行使されるものであるから、その権利行使によって社会を構成する他の基本的人権と衝突をきたすことがあり得るのは避け難い。

しかし、争議権はその行使によって使用者に損害を与えることはもちろん、第三者に対しても何がしかの損害を及ぼし、迷惑を与えるものであることを前提になおかつ憲法上保障されたものである。

労働者が争議権を行使することによって衝突が想定される他者の権利、利益としては、使用者に対する関係は別として、国民(住民)の日常生活上の単なる便益から生命、身体の安全や健康といったものまで実に様々なものが考えられる。

しかし、これらすべての利益が争議権制約の根拠となるわけではない。

争議権が労働者の生存権に直結する権利であり、生存を維持、向上させる重要な手段であるという争議権保障の意義を正しく理解するならば、争議権を全面的に禁止する根拠となりうるものは極めて例外的な場合に限られるべきである。争議権を禁止する根拠となるのは、争議権と比較してより高い価値が認められる人権が侵害される場合、例えば、「生命、自由及び幸福追求の権利」(憲法一三条)とか「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法二五条)で保護される法益、具体的には生命、身体の安全とか健康といった人間の生存に密着した法益が侵害される場合である。

(ハ) 従って右以外の法益の場合には禁止以外の制限手段をとることによって十分に調整することができるのであるから、禁止という手段を用いることは許されないといわなければならない。

即ち、争議権の場合に留意すべきは、争議権行使の全面禁止とその他の制限とでは労働者の権利保護において決定的な差異があるということである。争議行為が全面的に禁止されるときは、単に争議権についてだけでなく、労働者の団結権や団体交渉権もその大半の存在意義を失うことになるから、労働者にとっては、争議権に一定の制限が課せられた場合と違って、全面禁止されるならば人間に値する生存が危くなるに至るのである。

争議権の制限については、どのような職種の労働者がどのような態様の争議行為を行なうのか、その争議行為によって侵害される権利、利益の内容はどのようなものであるか等々によって様々な場合が考えられる。従って、争議権の制限が許される場合があるとしたら、それに対応した制限手段が選択されなければならない。

二、争議権制約の合憲的限界

(一) 合憲審査基準としての一〇・二六判決の四条件

右にみた争議権制約のあり方の基本的な考えについては、かつて最高裁も認めるところであった。即ち、一〇・二六判決は、労働基本権について制約されることを認めながら、「具体的にどのような制約が合憲とされるかについては諸般の条件ことに左の諸点を考慮に入れ、慎重に決定する必要がある」として、労働基本権の制限が許される場合として、いわゆる四条件を示した。

第一条件 「労働基本権の制限は、労働基本権を尊重確保する必要と国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較考慮して、両者が適正な均衡を保つことを目途として決定すべきであるが、労働基本権が勤労者の生存権に直結し、それを保障するための重要な手段である点を考慮すれば、その制限は合理性の認められる必要最少限度のものにとどめなければならない。」

第二条件 「労働基本権の制限は、勤労者の提供する職務または業務の性質が公共性の強いものであり、したがってその職務または業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれのあるものについて、これを避けるために必要やむを得ない場合について考慮されるべきである。」

第三条件 「労働基本権の制限違反に伴う法律効果、すなわち違反者に対して課せられる不利益については、必要な限度をこえないように、十分な配慮がなされなければならない。」

第四条件 「職務または業務の性質上からして、労働基本権を制限することがやむを得ない場合には、これに見合う代償措置が講ぜられなければならない。」

この一〇・二六判決の示した労働基本権制限の論理は、労働基本権問題の正しい発展方向を指し示したものであり、右四条件のうち、とくに第一・第二条件が、前述の争議権制約の基本的視点とも合致することは明らかであろう。それ故に、第一・第二条件を視座に据えての違憲論の展開も下級審では実践されていったのである。

我々も基本的にはそのような立場に依拠しつつ、四条件(とりわけ第一・第二条件)の適用上の留意点を明らかにして、労働基本権制限の合憲性を判断すべきであると考える。

(二) 第一条件適用上の留意

1 労働基本権(争議権)の根源的性格と比較衡量

一〇・二六判決の四条件の第一条件は、労働基本権の制限について、労働基本権を尊重確保する必要と、国民生活全体の利益を維持・増進する必要とを比較衡量するとの立場を採りつつ、「労働基本権が勤労者の生存権に直結し、それを保障するための重要な手段である点を考慮すれば、その制限は合理性の認められる必要最少限度のものにとどめなければならない。」としている。

しかし、労働者の労働基本権の行使と国民生活の利益を比較衡量するといっても、自ずと両者は質的に全く異なったものであり、又、比較衡量といっても基準自体が自由にフロートされ設定されたのでは、制約の原理・基準といっても全く意味を失ってしまうことになる。

従って、第一条件については殊の他注意しておかなければならない点は、労働基本権の根源的性格――労働者の人間らしく生きるための必要不可欠な手段である権利――生存権実現の手段としての権利たる側面――をふまえているからこそ、最大限尊重されなければならず、従って、その反面の労働基本権の制限は「必要最少限度のものにとどめなければならない。」とされた点である。

第一条件では比較衡量といいつつも、後段ではっきり労働基本権優位の思想を打ち出していることの確認こそが先ず必要である。それはまさに労働基本権の尊重確保こそが原則であり、その制限は例外であることを明瞭に意味する。

前段の労働基本権の生存権実現の手段としての権利であることの認識から、当然の結論として労働基本権の制限が必要最少限度にとどめられなければならないとの判示部分が導き出されたのであり、ここに、一〇・二六判決の傑出性の一つが存するのである。

2 制限の必要最少限度の原則について

(1) 第一条件は、労働基本権優位の上に立って、「その制度は、合理性の認められる必要最少限度のものにとどめなければならない。」としているが、このような態度を採る以上、制限の必要が生じたとしても、それは制限の必要性の有無・程度、争議行為がもたらす国民生活の具体的な影響の程度を個々の争議行為毎に考察すればよく、争議行為を全面一律禁止する必要性と合理性は全くない。そればかりかどのように考えても全面一律禁止は合理的な必要最少限度のものとはいえないのである。

どんなに公共性が強い職務であっても、争議行為の態様如何、事前措置等によって、国民生活に重大な障害をもたらさない場合は、いくらでもある。従って争議行為を個別に制限の方法を講じることが実はありうるべき争議権制限の姿だといえる。いいかえれば制限されるといっても、それは禁止のみに限らず、当然「より制限的でない他の手段があるか否か」という点についても、考慮すべきであるということである。

即ち、人権の制限は「より制限的でない実効可能な他の選ぶべき手段」

によるべきであるとする、いわゆるアメリカ法の「LRAの原則」は、労働基本権の制限においても基本的には妥当する。

(2) ちなみに現行法制上の争議権制約のあり方をみても、事前の争議行為禁止は極めて限られた例外的なものであることが判明する。

たとえば、

① 労調法による制限

(a) 労働関係調整法は、第八条に定める事業を公益事業とし、これらの事業につき、争議行為の事前予告を義務づけ(三七条)、また内閣総理大臣に、一定の要件と手続により緊急調整の決定をする権限を与え、この決定がなされた後一定期間(五〇日間)の争議行為を停止している(三五条の二、三八条)。

(b) さらに同法は「工場事業場における安全保持の施設の正常な維持、又は運行を停廃し、又はこれを妨げる」争議行為を禁止している(三六条)

② スト規制法による制限

「電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律」は、

(c) 「電気事業における電気の正常な供給を停止する行為その他電気の正常な供給に直接障害を生ぜしめる」争議行為の禁止(二条)

(d) 石炭鉱業における「保安の業務の正常な運営を停廃する行為であって、鉱山における人に対する危害、鉱物資源の滅失もしくは重大な損壊・鉱山の重要な施設の荒廃又は鉱害を生ずる」ような争議行為の禁止(三条)

している。

③ 船員法による制限

海上の特殊な危険な業務に従事する船員については、「船舶が外国の港にあるとき、又はその争議行為により人命若しくは船舶に危険が及ぶようなとき」には、争議行為が禁止される(三〇条)

がそうである。

(3) これらの法制度を通じてみられる争議権制約のあり方を要約すれば、次の三点に整理しうる。

先ず第一に、いずれもいかなる争議行為をも全面的に一律に禁止しているものではなく、一定の業務につき一定の態様の争議行為を禁止し、あるいは争議行為が一定の段階に達したときにはじめて禁止しうる要件を認め、あるいは単に争議行為につき事前予告を要求しているものにすぎない。

第二に、これらの法制度は、いずれも争議行為により国民の生命・身体の安全、あるいはこれに準ずべき国民の生存にかかわる重要な法益が侵害されることを防ぐという観点から、一定の業務につき争議行為を個別に制限していることである。

たとえば、労調法は八条において公益事業の定義に際し、「……公衆の日常生活に欠くことのできないもの」(第一項)、あるいは「……業務の停廃が国民経済を著しく阻害し、又は公衆の日常生活を著しく危くする事業……」(第二項)として、右の観点を採用している。

又、同法三六条の「安全保持の施設」の意味・解釈について、行政解釈が早くから「安全保持の施設とあるのは、人命に対する危害予防もしくは衛生上必要なる施設をいう。」(昭二二・一〇・二・労発第五七号)とし、鉱山におけるガス爆発防止施設、落盤防止の施設、通気施設、墜落防止の蓋柵など鉄道や踏切警報装置などがこれに当たるという見解をとり、学説もほとんど反対なく、この見解を支持している。

さらに、スト規制法一条はスト規制の目的として、「電気事業及び石炭鉱業の特殊性ならびに国民経済及び国民の日常生活に対する重要性にかんがみ公共の福祉を擁護するため、これらの事業について争議行為の方法に関して必要な措置を定めるものとする。」としているが、右にいう公共の福祉の内容が、同法二条、三条によって、国民の生命・身体の安全あるいはこれに準ずべき国民の生存にかかわる重要な法益の侵害を防ぐという点にあることを看取ることは容易であろう(争議行為の方法に関しての制限であって、全面一律禁止ではないことを、法文上注意的に書かれている)。

第三に、仮に第一に述べた国民の生命・身体の安全等の観点から争議行為が禁止されるとしても、それは決して全面一律禁止という制限方法を合理化しうるものではない。公益事業では「国民生活に重大な障害をもたらすおそれ」との関連からみて、具体的な争議行為の態様ごとに、争議の予告、争議の一時停止、緊急調整などにより、国民生活への重大な障害を避けうるとしており、又スト規制法等によっても国民の生命・身体に直接かかわるような態様の争議行為のみを禁止しているにすぎないのである。

(三) 第二条件適用上の留意

1 争議行為と「国民生活」

(1) 第二条件は、「勤労者の提供する職務又は業務の性質が公共性の強いものであり、したがってその職務または業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に大きな障害をもたらすおそれのあるものについて、それを避けるために必要、やむを得ない場合について考慮されるべきである。」とされ、その職務の性質・内容によって、その争議行為が国民生活に及ぼす影響が異なるので、その点を考慮すべきことを明らかにしている。

ところで、右にいう「国民生活に重大な障害をもたらすおそれ」が具体的に何を意味するのか、この第二条件自体の抽象的表現のために明確でない。

一〇・二六判決、四・二判決及びその後の下級審判決においても「国民生活」なるものの掘り下げた分析を看過してきた結果、たとえば、「国民生活」との関連において争議行為を制約しうることからただちに禁止という形の制限を当然視してしまったり、「国民生活全体の利益」なるものの内味を検討することなく、ほとんど慣用語化してしまったりしている。そして、いつの間にかかつての「公共の福祉論」の化身ともいうべき「国民の迷惑論」にまで下げて理解する下級審判決もあった。

従って、第二条件を合憲テストの基準としうるためには、「国民生活全体の利益」といわれるものの法的内容、そしてそれが争議権に優越しうる法的価値を有しうるかの検討が必要となろう。

(2) ところで、そもそも争議行為というものは、使用者に対してはもちろん第三者としての公衆に対しても、多かれ少なかれ迷惑をかける行為であり、常に相手方たる使用者および第三者に対する攻撃性・打撃性という属性を本質的に有している。こうした属性をもたない「争議行為」は、労働者の使用者に対する対抗手段としての意味をなさず、およそ争議行為の名に値しないものである。争議行為は本質的に使用者の利益を害し、第三者たる公衆に迷惑をもたらすものであるため、歴史上激しい弾圧を受け、かつ禁止されてきたのである。

従って、争議権の制限を検討する場合、かかる争議権自体の持つ第三者に対する侵害性という本質を当然の事理として承認しなければならず、かかる上での憲法上の争議権保障を考慮に入れなければならない。この点は、生存権実現の手段的権利性から労働基本権の制約を安易に認めた石井照久教授でさえ次のように言っている程である。即ち、「労働三権の制約は、このような国民全体の利益との関係において慎重に判断せられるべきものであるが、それはあくまでも労働三権という労働者の経済的基本権に内在する制約として考慮すべきものであり……、右のような厳格な意味での制約としての基準を『公共の福祉』というのであるならば、いずれの立場をとっても問題の解決は実質的には変わらないことになる。しかし、『公共の福祉』という言葉は、それ自体きわめて弾力的な内容のものであり、『公共の福祉を守る』ということによって、それ自体その内容が説明せられているような錯覚に導きやすい概念である。それだけにこの漠然とした概念によって労働三権、とくに争議行為の制約を法律的に規整することは危険である。それは、とかく『公共の便宜』というようなことに置き換えられやすい。争議行為は使用者に対してはもとより、第三者たる公衆に対しても、多かれ少なかれ迷惑をかける行為である。公益事業においては特にそうであるが、わが国のように経済底が浅い国では一般産業の場合でも、争議行為は他の産業や公衆に深刻な迷惑をかけやすい。それだけに、公共の福祉ということが安易に採用されてくると、わが国では争議行為を認める余地が、ほとんどないことになる。公衆に迷惑をかけないということを『労働組合の良識』ということ以上に、法律的意味のものとして把握することは、きわめて危険なことであるとともに、労働三権を保障するわが憲法にも適合しないことである。」(法律学全集「労働法総論」三四二〜三四五頁)

2 「国民生活」と争議権制約の限界

(1) さらに、第二条件の「国民生活全体の利益」との関連で注意すべき点は、労働基本権(争議権)の根源的性格と必要最少限度の原則からみて、仮に国民生活全体の利益が争議行為の制限の根拠となりうるとしても、その実体が生存権実現の唯一不可欠の手段としての権利である労働基本権に優越して、争議行為を制限せしめる程の法的価値を担うのかが論証されなければならない。

ところが、官公労働者の従事する職務とのかかわりの中で、争議行為の結果国民生活に受ける影響は、行政事務の停止であり、その他公的施設等サービス業務の停止、国有・公有財産の管理業務の停止、教育活動の中断、その他運輸・通信業務の中断等いろいろあるが、それらはいずれも国民の生存ないし生活の基盤までをも直接に破壊せしめる性質のものでは決してなく、日常生活上の便益の一時的喪失といった付随的かつ副次的な性質のものにすぎない。

とすれば、「国民生活」上の不利益一般が争議権制限の根拠となるのではなく、争議権が生存権実現の手段としての権利であるとする把握との関連で、他の国民の生存権的利益尊重との質的な比較衡量の問題になってくる(前述 争議権制約の有り方 (ロ)参照)。

(2) 従って、もともと争議行為を禁止しうる契機として想定されるものは、

① 生存権実現の手段としての争議権に優越しうる法益を担ったものであり、

② 一旦それが侵害されたならば回復することのできない性質のもの、

でなければならない。

この種の法益として考えられるのは、具体的には他者の生命・身体の安全とか健康といった人間の生存に密着した法益であり、又そのことに着目して争議行為禁止を定めているのが既にみた労調法三六条であった。

3 もっとも、そのように述べたからといって、かかる法益の争議権制限の根拠としてなりうるのであって、その他の法益――日常生活上の便益等――については一切考慮しなくても良いというものではない。「国民生活」上の不利益が何らかの形で法的に配慮されなければならない場面が生じてくることは否定しえない。

しかし、その場合であっても、それらの「国民生活」上の不利益は、基本的には禁止以外の他の選ぶべき手段によって十分に調整することが可能であるから、原則として禁止という手段を用いることはできない(現行法上の争議権制限のあり方を参照すれば、そのことは直ちに判明する。)

仮に、「国民生活」上の利益が争議行為そのものの禁止という事態を要請する場合があるとすれば、それは争議行為が長期化し、単に日常生活上の便益の一時的喪失にとどまらず、国民の生存ないし生活の基盤までをも破壊する明白かつ現在の危険への質的転化の段階においてであるといわざるをえない。

そのような事態はまさに例外的事態であり、例外的事態の発生の可能性をもって原則的争議行為禁止の根拠にすることは本末転倒のそしりを免れない。

こうして、地公労法一一条一項が、地方公務員法五七条の適用をうける単純な労務に雇傭される職員と地方公営企業職員について、争議行為を全面一律に禁止したことは、右の第一条件、第二条件の示す合憲性審査基準に照らし、明らかに違背する。

そこでさらに、具体的に地公労法の適用を受ける地方公務員の職務内容を分析し、右第二条件との関係で地公労法一一条一項が違憲であることをより明白にさせよう。

三、地公労適用職員の職務内容と争議権の制限

(一) 地方公営企業など

企業会計関係(交通、電気、ガス、水道など)一七万人と事業会計関係(港湾整備、病院、宅地造成など)二〇万人の合計三七万人(地方公務員全体の12.4%)及び単純労務職員約三五万人、以上合計約七二万人は地公労法が適用されるが、争議行為は全面的に禁止されている(但し禁止違反に対する罰則はない)。

1 地方公営企業職員について

昭和四八年における地方公営企業の総数は六、九二六事業で、その区分並びに事業別職員数の割合等は以下の通りである(地方公営企業年鑑第二一集)。<編注・下表>

事業別職員数

事業

人数(人)

病院

125,117

40.3

水道

71,683

23.1

交通

60,586

19.5

公共下水道

22,626

7.3

観光施設

6,105

2.0

宅地造成

5,861

1.9

工業用水道

3,461

1.1

港湾整備

2,617

0.8

電気

3,038

1.0

その他

9,206

3.0

(総数)

310,300

100.0

事業別区分

事業数

上水道

事業

1,709

24.7

工業用水道

84

1.0

交通

136

2.0

電気

34

0.5

ガス

73

1.1

病院

703

10.9

簡易水道

1,792

25.9

公共下水道

393

5.7

港湾整備

179

2.6

市場

138

2.0

と蓄場

362

5.2

観光施設

629

9.1

宅地造成

504

7.3

有料道路

38

0.5

駐車場

94

1.4

その他

58

0.8

合計

6,926

100.0

これらの事業については、全ての自治体が等しくこれらを行っているわけではなく、ある自治体では公営企業で行うが他では民間が行う事業もあり(例えばガスなど)、民間企業と併存して行う事業もあり(例えば交通、病院など)、また国民生活との関連が極めて希薄な事業もある(観光など)。

以下に主要な事業について公共性の程度を分析してみよう。

(1) 交通事業

Ⅰ 総事業数一三六の内訳は以下の通り。

路面電車  八

自動車運送(バス)  五三

高速鉄道(地下鉄)  八

懸垂電車  二

船舶運航  六四

簡易軌道等  一

Ⅱ これらの地方公営企業交通事業のうち、軌道・地方鉄道事業・自動車事業の、民間を含めた公益交通事業に占める地位は、年間輸送人員をみると、軌道事業においては地方公営事業の占める割合は全体の一五%、自動車輸送事業においても全体の二五%を占めるにすぎない。

Ⅲ また首都交通圏における交通機関別輸送人員のうち、公営交通機関(都営バス、地下鉄など)の年間輸送人員は全体の6.1%を占めるにすぎず、また国鉄は全体の24.2%を占めるから全体の約七〇%は民間の交通機関によっていることになる。

Ⅳ このように見てくると、地方公営の交通事業は、基本的には全体としての都市交通機関の一分野を占めるにすぎず、しかも多くは民営交通機関と併存している。

(2) 電気供給事業

事業数は三四であるが、これらは全て水力発電であり、殆どが都道府県営(三一事業)で、電力会社への卸電気事業である。

わが国の昭和四八年度の全電気事業による年間電力量の割合は、水力15.2%、火力82.7%、原子2.1%であり、このうち地方公営企業の電気事業の占める割合は、水力発電の8.5%、全体の僅か1.3%にしかすぎない。

(3) ガス供給事業

地方公営ガス事業のわが国のガス事業全体に占める地位は、販売量では全体が六、一一六百万立方メートル、公営は二四六百万立方メートル(4.0%)、需要家戸数では全体が一二、六八七千戸で公営が五一七千戸(4.1%)にすぎない。このように圧倒的に大部分のガス事業が民営であり、とくに大都市においては殆どが民営となっている。大手三社(東京ガス、大阪ガス、東邦ガス)の販売量は全体の七五%を占めており、これらを含め民営はスト権が保障されている。

(4) 病院事業

わが国の全病院に占める公立病院の地位は、全国八、一三四病院のうち九四二病院、11.6%であり、大都市においては公立病院の占める割合はより低い。

(5) その他

以上のほか自治体事業として水道、公共下水道、工業用水道、港湾整備、市場、と畜場、観光施設、宅地造成、有料道路、駐車場整備、採石、有線放送、林業・製材、畜産、自動車学校、骨材製造、住宅建設等の事業がある。このうち水道事業については給水等の業務は、直接、生命、健康、安全に関わるものであるが、その余の部分は総じて職務の一時的停廃が国民生活に与える影響は少なく、公共性の程度は低いということができる。

2 単純労務職員について

これに属するものとして清掃事業職員、学校関係の給食調理・用務・警備等の職員、病院関係の給食・消毒等の職員、試験研究機関・土木関係等の現業職員、その他用務員、運転手、タイピスト等の現業職員などで、合計約三五万人である。

(1) 清掃事業

清掃事業に従事する地方公務員は約九万人、さらに委託、許可による民間清掃業者の従業員数は約五万三千人で合計一四万三千人が清掃事業に従事し、民間委託、許可の傾向は強まっている。

昭和四七年度における一般廃棄物(ごみ・し尿)の収集の事業形態別内訳は別表の通りである(昭和四九年版厚生白書二九九頁)。

し尿収集は民間(委託・許可)が76.5%、ごみの場合27.2%を占めている。

清掃事業は、業務の停廃が長期間に及ぶとき国民生活への支障が考えられるが、右のごとき民間業者への下請、混在の形態を考えれば、地方公務員のみにつきストライキの全面禁止をする合理性は存しない。

(2) その他の単純労務職員については、概して職務の一時的停廃が国民生活へ重大な支障をもたらすおそれはなく、またこれらの部門における民間への下請け混在の傾向が見られる。

し尿の収集

ごみの収集

市町村による

直営

kl/日

21,586

23.5

t/日

54,991

72.8

委託

26,801

29.2

13,909

18.4

許可業者による

43,383

47.3

75,544

8.8

91,770

100.0

75,544

100.0

(昭和49年厚生白書による)

3 以上のように、地方公営企業職員や単純労務職員については、その職務内容自体からみて、或いは民間企業との併存等の事情から、禁止の合理性を欠くものが大部分であり、制限の必要がないか、ないしは他の制限手段によって国民生活に対する重大な障害を避けうるのであって、大部分が禁止に理由のないものということができる。

四、地公労法一一条一項違憲

第一、第二条件の詳細な検討、及び地公労法適用職員の職務内容の分析によって、現行争議行為全面一律禁止規定の合憲審査基準に照らして、明らかに違背することは疑を容れない。既に検討してきたような争議権の制限は必要最少限度に止めるべきだとする原則、ないし「LRAの原則」や、禁止に該当する職務とは一体何であるか、地公労法適用下の職務内容に該当するものがあるかという点に照らせば、制限の必要性の有無と制限の程度を個々の争議行為毎にその具体的な影響を考慮しつつ検討すればよいのであって、にもかかわらず、全ての争議行為を一律に禁止した地公労法一一条一項の規定は明らかに第一・第二条件に違反する不合理な規定であり、憲法二八条に違反する違憲無効の法令である。

第二章 原判決の地公労法一一条一項合憲判断批判

一、批判の視点

(一) 地公労法一一条一項について正面から憲法二八条との適憲性を判断した判例は今日まで存在しない。

従って、原判決は地公労法一一条一項については、国家公務員に対する争議行為全面一律禁止を合憲とした四・二五判決、地方公務員に対する五・二一判決、三公社五現業職員に対する五・四判決の趣旨が基本的に妥当するとして、その合憲性を論拠付けたのであった。

従って、原判決の合憲論批判は、結局四・二五、五・四判決がその合憲論拠の支柱とした。

(イ) 議会制民主主義論ないし財政民主主義論

(ロ) 代償措置論

への批判を中心課題とせざるをえない。

なお、本件は現業地方公務員の争議行為禁止規定の適憲性が問題となっている由に、原判決は実質的には五・四判決に論拠しているものと思われる。

(二) なお、原判決は、四・二五判決と五・四判決を併列して引用しているが、両判決は、決して同一の基調で合憲論を展開している訳ではない。

即ち、五・四判決といえども判示文面上においては四・二五判決との連続性や、公務員も憲法二八条にいう「勤労者」であるという不動の原則は踏襲せざるをえなかったのであるが、しかしその実、五・四判決は四・二五判決を大幅に踏み出し、質的に全く異なる論理に転化したのである。

四・二五判決は一応形式的にではあったけれども一〇・二六、四・二判決と同じように比較衡量論を採用していた。

「労働基本権につき前記のような当然の制約を受ける公務員に対しても、法は国民全体の共同利益を維持増進することの均衡を考慮しつつ、その労働基本権を尊重し、これに対する制約、とくに罰則を設けることを最小限にとどめようとしている態度をとっているものと解することができる。そして、この趣旨は、いわゆる全逓中郵事件判決の多数意見においても指摘されたところである」(傍点代理人)。

つまり、四・二五判決でさえ、いまだ団体交渉権・争議権を否定することはできず、そのやむをえない制約の論理を検討することを建前としていたのである。

然るに、五・四判決の場合には、公務員や三公社・五現業の職員には当初から団体交渉権・争議権が当然保障されているとはいえない、というのであるからこれでは制約の論理は不必要ということにならざるをえない。

かつての最高裁判例を通じて問題となったのは、労働基本権に対し、どのような根拠によって、どの程度まで制約が合憲であるか、という点であり、一〇・二六、四・二判決は国民生活全体の利益との比較衡量において必要最少限度の制約を課そうとしたのである。

しかし、そのような比較衡量論は本来的に相対的制約論であるが故に争議行為全面一律禁止とは到底相容れない。

争議行為全面一律禁止に固執し、いささかも制約という概念を入れる余地をなくさせるためには、比較衡量=相対的制約論を完全に放棄しなければならず、又、四・二五判決の国民全体の共同利益=公共の福祉すらも袂別しなければならない。

そこに、団体交渉権・争議権無保障の論理として財政民主主義論が登場せざるをえない背景が存したといえる。(註)

※註 森英樹教授「議会制民主主義・財政民主主義と労働基本権」(季刊労働法一〇六号六二頁)も、「ただ実のところを推察すれば、全農林判決を下じきにしながらその上にくみたてられた全逓名古屋中郵判決が、他の論理ではなしに、『財政民主主義』論をほぼ唯一の論拠として選びとったには、他の論理には拠りきれないことからくる、いわば論理的困難さを、最高裁なりに念頭においていたかも知れない」とされている。

はしなくも、四・二五判決の五裁判官反対意見が、「公務員の地位の特殊性を強調する考え方は、勤務条件の決定に関する公務員の労働基本権、とくにその争議権を付する制約原理としてよりも、むしろ、その否定原理としてはたらく」とした鋭い指摘を裏付ける結果となったのである。

(三) 右のように、四・二五判決とも異なる論理を持つ五・四判決についてはそもそも次の二点について致命的な欠陥があるといわざるをえない。

1 憲法二八条の「勤労者」承認と団交権・争議権無保障という矛盾

五・四判決は、憲法二八条は公務員にはもちろんのこと、三公社五現業の職員にも「団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」を保障しているという。しかるに五・四判決は公務員についての四・二五判決を引用しつつ、その理は五現業三公社の職員についても直ちにまたは基本的に妥当するとし、財政民主主義の名の下に、三公社の職員の勤務条件は、国会の意思とは無関係に労使間の団体交渉によって共同決定することは憲法上許されない、と判示したのである。それゆえ、三公社・五現業の職員については、争議権はもとより団交権について憲法は保障しておらず、公労法が団交権・協約締結権を認めているのは、立法上の自由裁量による特別の委任とされたのである。

このような憲法解釈に立つなら、どうして憲法二八条の保障が公務員や三公社・五現業の職員に与えられていることになるのか。一方で「保障する」といい、他方では労使交渉による共同決定は憲法上許されないとして団交権すら否認する、これは全くの矛盾というべきである。もし、五・四判決のいうように「財政民主主義」ないしそのあらわれとしての「議会制民主主義による勤務条件法定主義」を優先させるのであれば、憲法二八条の「勤労者」の中に公務員はおろか、三公社五現業の職員はふくまれないといわざるをえなくなるのである。しかし、憲法二八条の「勤労者」のなかに、公務員や三公社五現業の職員をふくめる以上「財政民主主義」等に絶対的優先権を与えることは不可能である。

この点について、団藤裁判官が「われわれは、何よりもまず、公務員も憲法二八条にいわゆる『勤労者』であり、同条の規定する『団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利』は、公務員にも基本的に保障されるべきであるという認識から出発しなければならない」とし、環裁判官も「現行法令の解釈にあたっては、公務員はもともと労働基本権の保障がなく、現行法上限られた範囲で与えられているのは、法律が、憲法二八条の規制とはなれて、立法政策として恩恵的に与えたものとする前提に立つべきではなく、逆に、ほんらい公務員も、その保障を享有するとの前提に立つべきであり、この前提をとることには、現実にその基礎があるというものである。

そして、この実定法解釈の基本的態度の差は、結論に微妙に影響すると考えられるので重要である」と述べられた点を想起すべきである。

2 違憲審査方法として異端であること

五・四判決は、四・二五判決を引用しながら、その実四・二五判決を大幅に踏み出していた。すなわち四・二五判決には「労働基本権につき前記のような当然の制約を受ける公務員に対しても、法は国民全体の共同利益を維持増進することの均衡を考慮しつつ、その労働基本権を尊重し、これに対する制約、とくに罰則を設けることを最少限度にとどめようとしている態度をとっているものと解することができる。この趣旨は、いわゆる全逓中郵事件判決の多数意見においても指摘されたところである」として、全逓中郵事件の基本的発想――労働基本権尊重、利益衡量論――に立つかに読める部分があった。

一〇・二六判決、四・二判決までの最高裁の違憲審査方法は、呪文的「公共の福祉」絶対優越論からくる争議行為全面一律禁止合憲化ではなく、労働基本権と他の憲法上の抑制原理との調和基準の発見にあった。

まさに、昭和四〇年七月一四日和教組大法廷判決において、「(労働基本権)の制限の程度は、勤労者の団結権等を尊重すべき必要と公共の福祉を確保する必要とを比較考量し、両者が適切な均衡を保つことを目的として決定されるべきであるが」と判示され、公共の福祉が人権相互間の調整原理であることを打ち出したときから、最高裁判所はその必然的発展として、一〇・二六判決流の違憲審査方法をとらざるをえなかったのである。その結果、公共の福祉の発見のため比較考量の基準に依るかぎり呪文のような「公共の福祉論」をもって現行争議行為全面一律禁止の合憲性を維持するための根拠とすることはできなかった。

とすれば、五・四判決が争議行為全面一律禁止を合憲とするためには、従来の公共の福祉論と訣別し、他の点に根拠を求めざるをえない。五・四判決が、四・二五判決の「国民全体の共同利益」すら放棄し、財政民主主義論に、そのよすがを求めざるをえなかった弱点の所以である。

最近の最高裁は、公正な裁判の要請と報道機関の取材の自由の要請との調和が問題となった博多駅フィルム提出命令事件決定では、具体的事件での比較考量の方法をとったし(最大決昭四四・一一・二六)、四・二五判決後も、薬事法による薬局開設距離制限規定違憲判決において、「具体的な規制措置が憲法二二条一項にいう公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによって制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない」とし(昭五〇・四・三〇)、とりわけ立法目的とその立法目的達成の手段との間には均衡が保たれていなければならないとしたのである。

さらに、全逓猿払事件判決においても、明示的な比較考量の方法論がとられており国公法の政治活動禁止規定の合憲性を判断するにあたって、「禁止の目的、この目的と禁止される政治行為との関連性、政治的行為を禁止することにより得られる利益と禁止することにより失われる利益との均衡の三点から検討することが必要である」とした(昭四九・一一・六)。

このような違憲審査の方法論に反し、五・四判決は、憲法上保障された団交権・争議権の制約について、ただ「財政民主主義論」絶対化の上に立ち、基本権の一律無差別剥奪を合憲化したものであって、これは違憲審査の方法論としても完全に誤っている。

二、五・四判決における争議権否認の根拠とその批判

五・四判決は、四・二五判決を引用しつつそれを要約して「これを要するに非現業の国家公務員の場合、その勤務条件は、憲法上、国民の意思を代表する国会において法律、予算の形で決定すべきものとされており、労使間の自由な団体交渉に基づく合意によって決定すべきものとはされていないので、私企業の労働者の場合のような労使による勤務条件の共同決定を内容とする団体交渉権の保障はなく、右の共同決定のための団体交渉過程の一環として予定されている争議権もまた憲法上、当然に保障されているものとはいえないのである。」とし、さらに「右の理は、公労法の適用を受ける五現業及び三公社の職員についても、直ちに又は基本的に妥当するものということができよう。」とする。そして、これをうけて、財政民主主義論を説き、団交権がそもそも憲法上保障されていないとの結論を導き出す。

四・二五判決では、議会制民主主義のあらわれとしての勤務条件法定主義にウエイトが置かれ、労働基本権、就中争議権制約の論理が採られていたが、現業国家公務員と異なり勤務条件法定主義とは直接関係がない三公社の場合に至って、議会制民主主義は憲法八三条の財政民主主義にウエイトを移し、憲法八三条の財政民主主義の見地から、労使間の団体交渉によって勤務条件を決定することは許されないとしたのである。

要するに、非現業公務員ないし現業公務員と、三公社の場合とでは、労働条件を交渉でもって決定する余地がないとする同様の結論を導き出すのに、前者では主として憲法七三条四号に、後者では主として憲法八三条に依拠しつつ、結論的には憲法四一条の国会による法律・予算の決定主義に集約されているといえる。

しかし、公務員の「勤務条件はすべて政治的・財政的・社会的その他諸般の合理的な配慮により……立法府」がこれを決定しなければならないとする意味での勤務条件法定主義が果して憲法上の基本原理の一つとして存在するのか否か先ずもって問題とされる。

ましてやかかる意味での勤務条件法定主義が財政民主主義と果していかなる関係にあるのかも、五・四判決からはよくわからない。

しかし、いずれにせよ憲法の基本原則である議会制民主主義(憲法四一条・八三条)の表われとされる勤務条件法定主義と、労使の団体交渉による勤務条件の決定との関係をどのように把えるかに問題の主眼点が存することは疑いがないであろう。

とすれば、五・四判決における争議権(団交権を含めて)否認の根拠の批判にあたっては、右の主眼点を念頭に置きつつもそもそもの勤務条件法定主義に対する批判をふまえたうえで財政民主主義論に対する批判を展開することになる。

ただ、四・二五判決でも問題になったところであるが、五・四判決は、団体交渉権=勤務条件の共同決定権=労働協約締結強制権との前提に立ち、その意味での団体交渉権が存在しないところに、団交補完機関としての争議権は否認されるとの立場を採るのであるから、その特異な団交権観を先ずもって批判しておくことが必要であろう。

(一) 団体交渉権=勤務条件共同決定権とする団交権観批判

(1) 五・四判決は至る所で「団体交渉による勤務条件の共同決定権」なる独特の用語を用いている。

五・四判決の基本的な誤まりは、よしんば団交権と議会制民主主義とが牴触する場合があったとしても、それは労働協約の効力をどこまで認めるかという次元の問題であって、団体交渉それ自体ではないという単純な事実の理解さえできていないことである。

即ち、そもそも団体交渉とは労使が一定の交渉事項について意思の合致を見出すために双方が意見を表明して交渉をするという事実行為をさすのであって、協約締結そのものとは一応区別されるものである。そしてそれに権利性が認められるのは、労働者側の正当な交渉申入れに対して使用者側は交渉の場に出席して誠実に交渉に応じなければならないということを意味するからであって、それ以上に労働者側の要求内容をそのまま受け容れる義務が生ずるとか、必らず協約を締結しなければならない義務が生ずるとかということまでをも意味するわけではないのである。この意味では使用者の対応もまた事実行為ということができる。

この点については、環裁判官の反対意見が、多数意見の団交権観について詳細に批判し、又労働法学説にあっては自明の理の事柄に属するものであることを想起すべきである。

※ たとえば蓼沼教授は「団交権は使用者側に団交応諾義務を生じさせるが、労働者側の要求をのんで団交を妥結させたり協約を成立させたりする義務まで含むものではなく、団交が妥結して協約が成立するかどうかは、もとより両当事者の自由に委ねられている」と述べられている(「名古屋中郵判決における公労法一七条の合憲論の検討」ジュリスト六四三号三九頁)。

又、玉田勝也法務省訟務局付検事も、「名古屋中郵事件判決では、団体交渉権は、使用者側との『団体交渉による勤務条件の共同決定権』と解されているが、他方、団体交渉権は使用者側に対して交渉の席に着き、誠意をもって交渉に当ることを要求することを内容とする権利であるともされている。名古屋中郵事件判決は、勤務条件の共同決定権ないしそれに関する協約締結権を否認し、争議行為は本来の労働協約締結権があって初めてこれを敢行する意義があり、その協約締結権がないところに争議権の存在価値はないとの論理構成を採ったため、団体交渉権を前記のように把握し、それについては憲法上の保障が当然にはないとしたもので、後者の意義における団体交渉権の保障が憲法上もないとする趣旨ではないであろう。」とされている(「官公労働者の団体交渉権」別冊判例タイムズ五号二八二頁)。

(2) 要するに、団交権=勤務条件の共同決定権=労働協約締結強制とみるところに五・四判決の基本的な誤まりがあり、従って五・四判決が弁護人の主張に対する判断部分で、

「もし、共同決定の権利が憲法上保障されているものとすれば、勤務条件の原案につき労使間に合意が成立しない限り政府はこれを国会に提出することができないこととなり、……国会の決定権の行使が損なわれるおそれがある」

と判示したのは、まことにこっけいだといわねばならない。

もし、政府が誠実に交渉に応じたとしてもなお「共同決定」に至らないときは、即ち団交が不調・決裂に終れば政府は直ちに行動の自由を有する。

政府は、該法案の提案をしなくてもよいし、一方、国会は提案を審議しないことも、あるいは逆に必要があれば議員立法も可能であって、いずれにせよ国会の決定権が損なわれることはない。

(3) 従って、残る問題は団体交渉の結果、労働協約(非現業国家公務員ないし非現業地方公務員の場合、現行法制では労働協約締結権を否定しているから「協定」という方が適当であるが)が締結され、それが現にある法律と牴触している場合、その労働協約(協定)に民間私企業におけるのと同様な、即ち労働条件を最終決定しうるという拘束力を付与することが、憲法四一条・七三条四号の勤務条件国会法定主義や憲法八三条の財政民主主義に背馳しないか、議会の審議権が侵害されたことにならないか、という点に尽きる。

この点については、次の勤務条件法定主義や財政民主主義に対する批判の中で触れることにする。

(二) 勤務条件法定主義の法意

五・四判決が、勤務条件法定主義の根拠として掲げた憲法七三条四号は、単に「法律の定める基準に従い、官吏に関する事務を掌理すること」が内閣の事務であることを明記しているにすぎない。

(1) 我国憲法は三権分立主義の建前を採り、国会が唯一の立法機関であるのに対し、「行政権は内閣に属する」(憲法六五条)とし、内閣は立法による制約は受けつつも自主独自の立場で行政権を専決行使することができることになっている。これは憲法上の権限である。そしてその内閣の専権事項が憲法七三条で具体化されている。

ところで、行政権の主体たる内閣が使用者として掌理する公務員労使関係は、行政権行使のための必要かつ当然の前提であって、行政権固有の内部作用にすぎない。

公務員労使関係を処理することは、憲法の規定をまつまでもなく、内閣独自の権限であって、国会の授権・委任によるものではない。

(2) なお、憲法七三条四号により、内閣の公務員に関する事務の掌理について「法律の基準」によるとされているが、それは四・二五判決における五裁判官の反対意見のいうように「国家公務員に関する事務が内閣の所管に属することと、内閣がこの事務の処理をする場合の基準の設定が立法事項であって、政令事項でないことを明らかにしたにとどま」るにすぎない。

しかも、この場合の立法事項は「基準の設定」であって、どのような基準の設定が憲法上予定されているかについては、憲法の他の条項、特に憲法二七、二八条との関連においてこれを把えなければならない。

この点については、「このような官吏または一般に勤労者の勤務条件についての基準法定主義の現行憲法における採用は、現代社会における労働関係または官吏関係における使用者による不合理な主観的・恣意的支配を抑制し、もって勤労者の勤務条件を一定の範囲と程度において客観化しようとしたものであるという一面を有することは、ほとんど異論はないところであ」り(註1)、又憲法七三条四号の「法律に定める基準」とは「身分保障的かつ大綱的な事項にとどまるもの」であり、「身分保障的な意味のものであるというのが、多数説ないし通説に近い理解」である(註2)。

(3) とすれば憲法八三条、八五条に定める財政民主主義の原則により、国費の支出にほかならない公務員に対する給与の支給が、法律や予算の形での国会の議決・承認に基づかなければならないとされ、したがって公務員については、団交の結果、給与に関する協定が組合と当局との間に成立しても、その協定にもとづく国費の支出が法律上または予算上不可能である場合には、その支出について国会の承認を要することが明らかであったにしても、しかし、このことから、公務員については給与についての団交は無意味であるとか、財政民主主義の原理は給与に関する公務員組合と当局との間の団交を当然に否定するとか、きめつけることができない。逆に、憲法二八条との関連で、憲法七三条四号に基づく公務員の勤務条件に関する「基準の設定」はできるだけ「大綱」的基準の設定にとどめ、その具体化は団交――協定に委ねるのが憲法上の要請と解すべきであり、ただこの場合に協定にもとづく国費の支出については、財政民主主義の原理に基づく制約があると解すれば必要にして十分である。もともと、公務員の勤務内容の多種多様性にてらして、その勤労条件の基準を細部にわたってまで法規により固定的に定めることは、現実に適合しないことは明らかであり、憲法七三条四号がこのような現実無視の「基準の設定」を要求しているものとは解されないのであるから、憲法二八条の規定にてらし、この「基準の設定」は、できるだけ大綱的基準の設定にとどめなければならないのである(註3)。

(4) しかるに、五・四判決は、弁護人の主張に対する判断として「大綱的基準のもとでその具体化を団体交渉によって決定するという制度をとる余地があるにしても、……それは……<そのような>余地を国会から付与されて初めて認められるものであって、国会の意思とは無関係に、憲法上の要請として存在するものとすることはできない」とするが、右のような制度をとることが、既に述べたように憲法二八条、七三条四号、八五条の整合的解釈として「憲法上の要請として存在する」と解すべきなのである。

※註1 室井力「公務員の勤務条件法定主義」(法律時報臨時増刊)、「ストライキ権」

註2 兼子仁「勤務条件法定主義」(国労法対時報No六)

註3 蓼沼謙一「名古屋中郵判決における公労法一七条の合憲論の検討」(ジュリストNo六四三)

同教授は「四・二五判決の五裁判官意見が、憲法七三条四号について『公務員の……勤務条件に関する基準が逐一法律によって決定されるべきことを憲法上の要件として定めたものではない』というのは、正確ではない。公務員の勤務条件については、その基準はすべて法律で決定されるべきであるが、それは大綱的基準にとどまるべきであり、そのもとで団交――協定による勤務条件の具体的決定がなされ、協定にもとづく国費の支出について財政民主主義に基づく制約があるというのが、憲法二八条、七三条四号、八五条の整合的解釈による憲法上の要請なのであり、団交――協定による具体的決定の余地のない勤務条件基準の細目にわたる決定は憲法違反と解すべきなのである。」とされている。

(三) 財政民主主義の趣意と労働協約との関係

1 財政民主主義の歴史的沿革と制度的趣旨

現代予算制度の原則としての財政民主主義ないし財政立憲主義は、歴史的には次の三つの基礎原理から成っている。

① 公的収入の議会による同意。

② 議会による支出の審議。

③ 公的支出、公的収入の定期的審議。

これら三原理が歴史上始めて成立したのは、近代立憲主義の母国たるイギリスであった。

「いうまでもなく、中世において、王は国家の機関として土地、人民に対する支配権をもつのではなく、個人的権利、すなわち、領土、領民に対する私的権利としてこれをもった。政治は、いわば王の『私事』であり、この意味で、『国の政治』ではなく『王の政治』が存したと言うことができる。このような体制においては、王は、政治に必要な経費をその私的財産によってまかなうべく(Que notre seigneur le roi vive de sien)被治者にこれを負担せしむべしという論理は成立の余地がない。王の私的収入が不足して、国民への課徴が考えられたとしても、王のみの意向によってそれをなすことは違法で、強力専制者以外のなしうるところではない。その合法的な収受は被課徴者の自由意思による『補助的援助金(aid auxilium)』の供与としてのみ可能である。そして、このような供与、すなわち課徴への同意を得る手段として召集された被課徴者代表の集合体が現代議会の原型となるものであった。イギリスで、被課徴者の合意なく強制的課徴をなしえないとする憲法原理は、このようにして成立したが、中世封建的政治基盤を離れて現代的議会制が各国に導入されるにあたっても、私有財産防衛に合理性を有するものとして、共に導入されたのであった。以上が現代予算制度原理の第一のものの存立事情である。

課徴が必要を超えてなされることは、私有財産防衛の精神を破る。が、それが必要を超えるかどうかの判断は、経費需要を審査して始めて可能となる。現代予算制度の第二の原理はまさにこのような論理から成立したものであって、それはいわば、第一原理のコロラリイである。イギリスの議会は、たんなる使途、金額の審査にとどまらず、審査の結果を金銭供与の条件として、供与金の支途指定をするという慣行をひらいた。他の国では、この慣行を議会の支出統制という形で一般的に拡大し、中には課徴金議決との関連的意味も失わせて、これを特段の制度とした憲法例もみえるが、他方には、支出への議会関与はあくまで課徴必要性についての「審査」にのみとどめる憲法例もある。

第三原理についてそもそもイギリスでそのような原理が成立したのは、議会による金銭供与が限時的におこなわれたことに起因し、第一原理実施のありかたの結果であった。が、ひとたびイギリスにおいてこのようなやり方が成立するや、それは、その歴史的起源とは無関係に独立の制度とされ、課徴金に対する限時的同意制を採らぬところにおいても、支出に対する統制を定期的なものとすることとなった」(小島和司日本国憲法体系第六巻所収「財務」一〇八頁)。

このような財政民主主義の成立の歴史的事情から明らかなように、財政民主主義とは立法権が行政権の恣意をチェックするという一九世紀の産物によるものであって、それが二〇世紀の時代の産物である労働基本権を全面否定する根拠となって立ち現らわれること自体、まことに奇異といわざるをえない。

財政民主主義を憲法上確立した欧米諸国において、憲法上我国と異なり争議権の明文の保障規定がないにもかかわらず、公務員の団交権、争議権が保障されているという現実の一事をもってしても、五・四判決の論理の脆弱性は明白である。

(2) ところで、憲法八三条にいう、「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」という規定は、財政民主主義の基本原則を一般的に明定したものであって、その規範的意味は、国の財政を処理する権限はすべて国会の議決即ち意思に基いて行なわれなければならないという点にある。国の財政は国家目的を維持するために必要な財力を調達してこれを管理・使用する作用であるからそれは本来行政権に属するが、しかし、財政が結局国民の負担に帰するという特質を有しているところからして、三権分立の理論をとりながらなお財政を処理する権限はすべて国会の議決たる意思に基いて行なうことを要するとなすことによって、財政作用の民主化を図ることが要請せられているからである。

そして、我憲法は財政に関する右の原則の具体化として

(イ) 租税法律主義(八四条)

(ロ) 国費の支出及び国の債務負担行為についての議決権(八五条)

(ハ) 予算についての議決権(八六条以下)

(ニ) 決算の国会による審査(九〇条)等の規定を置いている。

しかし、予算については、憲法七三条五号により「予算を作成して国会に提出すること」は、内閣の行なう固有の行政事務の一つとして掲げられており、それ故、予算の作成ならびに提出権が内閣にあることは憲法上疑いがなく、その反面議員には予算提出権はない。

このように、憲法は財政民主主義と予算作成権が内閣の固有の権限であるということを受け、一方の憲法上の原則たる三権分立主義との調和を保たせているというべきであり、この場合予算が国会の議決を受けるというのは、拘束力を付与される最終的決定プロセスというべきものである。

とすれば、その最終的プロセスに至る過程で、国会の予算審議権を侵害しない行政府の裁量の範囲内で一定の相対的独自性を認めることは憲法上問題はない。

予算の範囲内における労働条件の決定についてまで、財政民主主義の要請との理由で一切禁止する合理性は全く存しないはずである。

2 労働協約と国会の予算審議権との関係

ただこれを、現業公務員の勤務条件、ことに給与について論ずると次のような場合が問題になる。

即ち、政府当局と現業公務員組合との労使交渉により合意が成立し、労働協約が成立した場合、その労働協約に無条件に拘束力を付与すると、予算の成立を待つまでもなく政府は給与等支払義務が生ずることになり、それはまさに国会の予算審議権を侵害する結果をもたらす。

しかし、憲法上の予算審議権を尊重しつつ、他面労働基本権尊重との相互調和を図ることは必要であり、又それが憲法の要請といわざるをえない。

その意味では公労法一六条がその要請に応えたものということができよう。

即ち、公労法一六条は「予算上、資金上支出不可能な資金の支出」を要する場合のみが、財政処理のための国会の承認権と牴触することがあるとし、その場合、かかる労働協約(協定)は、政府を拘束するものではなく、又国会によって所定の行為がなされるまでは、そのような協定に基いていかなる資金といえども支出してはならないとし、国会――財政民主主義の優位性をその限度で保持したのである。

(四) 歯止め欠如論について

1 五・四判決や、四・二五判決の場合、歯止め欠如論が公務員の「社会的・経済的関係における地位の特殊性」として、相当大きな比重をもたせられている。

その要旨は次の三点であった。

① 公務員の場合、私企業と違って使用者側にロックアウト(作業所閉鎖)といった対抗手段がない。

② 私企業の場合は「労働者の過大な要求を容れることは、企業の経営を悪化させ、企業そのものの存立を危殆ならしめ、ひいては労働者自身の失業を招くという重大な結果をもたらすこととなるもので……、労働者の要求はおのずからその面からの制約を免れ」ないのに、公務員の場合は、使用者たる政府の存立が危殆にひんするという事態は考えられない。

③ 私企業の場合は「その提供する製品または役務に対する需給につき、市場からの圧力を受けざるをえない関係上、争議行為に対しても、いわゆる市場の抑制力が働くことを必然とするのに反し、公務員の場合には、そのような市場の機能が作用する余地がないため、公務員の争議行為は場合によっては一方的に強力な圧力となる」。

要するに、民間企業の場合、過大な要求は生産コストの上昇に転嫁され、その結果市場における他企業との競争上、顧客の減少、市場占有率の減少などをもたらし、ひいては従業員の労働条件低下となって、はねかえってくるという趣旨であろう。

2(1) しかし、第一点の使用者側にロックアウト(作業所閉鎖)といった対抗手段が存しない、という点については、これは現行法上公務員の争議行為が全面一律に禁止されていることの反面として論理必然的にロックアウトが否定されているという建前を看過すべきではない。

政府当局側の対抗手段の欠如から公務員の争議行為の禁止を引き出すのは論理の倒錯である。

ちなみに、最高裁はロックアウトの性格について「使用者に対して一般的に労働者に対すると同様な意味において争議権を認めるべき理由はなく、また、その必要もないけれども……個々の具体的な労働争議の場において、労働者側の争議の場において、労働者側の争議行為により……使用者側が著しく不利な圧力を受けることになるような場合には、衡平の原則に照らし、使用者側においてこのような圧力を阻止し、労使間の勢力の均衡を回復するための対抗防衛手段として相当性を認められるかぎりにおいては、使用者の争議行為も正当なものとして是認されると解すべきである」(丸島水門製作所ロックアウト事件最高裁第三小法廷昭和五〇年四月二五日判決、判時七七四号三頁)との基本的見解を採っており、従って公務員の側にも争議行為が認められれば、使用者としての政府当局側にもある一定の範囲でロックアウトが認められ、又それは法制度上も可能である。

(2) 第二点のいわゆる「親方日の丸論」に依った歯止め欠如論については、次のように考えるべきである。

即ち公務員組合に団体交渉権を保障したとしても、使用者たる政府当局側にはその要求を呑みかつ協約締結まで義務付けられているわけではない。

又、よしんば協約が締結されたとしても、現行法上、予算上資金上不可能な支出を内容とする協約であれば、あらかじめ国会で別段の法律が制定されていない限り国会の承認を得なければならない。つまり、組合側の賃上げ等要求内容が仮に過大であったとしても、国会において予算上支出不可能であるか否かという基準に照らした承認という制約が存するのであって、公務員組合の場合、通常の意味での市場の抑制力以上に、この意味での抑制が機能するのである。

しかも、国会の背後には有権者=一般国民の監視という二重の歯止めすら存在するのである。

(3) さらに、第三点の「市場の抑制力」欠如論についても、五・四判決が主張するような「市場の抑制力」は国家統治権の行使を担当する固有の非現業国家公務員の場合ばかりでなく、私営であるか国公営であるかを問わず、およそ独占的事業の場合にはひとしく働かないし、逆に国公営や公企体の場合でも、市場で競合関係に立つ企業が存在すれば、独立採算制のもとで必ずしも「市場の抑制力」が働かないとはいえないのである。

(4) こうして五・四判決の挙げた歯止め欠如論はいずれも争議行為禁止の根拠としてはいかにも薄弱であるといわなければならない。

(五) 代償措置論について

1 労働基本権の制限と代償措置の位置付け

労働基本権の保障の狙いは、「憲法二五条に定めるいわゆる生存権の保障を基本理念とし、勤労者に対して人間に値する生存を保障すべきものとする見地に立ち、一方で、憲法二七条の定めるところによって、勤労の権利および勤務条件を保障するとともに、他方で、憲法二八条の定めるところによって、経済上劣位に立つ勤労者に対して実質的な自由と平等とを確保するための手段として、その団結権、団体交渉権、争議権等を保障しようとするものである。」(一〇・二六中郵判決)。労働者の生存の保障は、勤労の権利および、勤労条件の保障をもって、そのひとつの方法としつつも、あわせて労働者の労働条件を維持向上させ、その生存を維持するためには労働者自らが団結しその団結を通して行動することによって、はじめて実現されるものであることを憲法は予定し、これらをともに基本的人権として保障するものである。労働基本権が本来、このように生存に直結する目的と機能を有するものである以上はそもそも本質的にこれにかわる制度は考えられない。

それ故、一〇・二六判決の場合には、代償措置論は四条件の第四位に位置付けられ、第一、第二条件に照らし労働基本権に制限を加えることが必要やむをえない場合に、制限の合憲性を担保しうる意味で代償措置論が位置付けられていた。従って、代償措置が講じられているからといって安易に労働基本権の制限が許される訳ではない。

然るに、四・二五判決の場合には「公務員についても憲法によってその労働基本権が保障される以上、この保障と国民全体の共同利益の擁護との間に均衡が保たれることを必要とすることは、憲法の趣旨であると解されるのであるから、その労働基本権を制限するにあたっては、これに代わる相応の措置が講じられなければならない。……公務員の従事する職務の公共性がある一方、法律によりその主要な勤務条件が定められ、身分が保障されているほか、適切な代償措置が講じられているのであるから、公務員の争議行為を禁止するのは、勤労者をも含めた国民全体の共同利益の見地からするやむをえない制約である……」とされ、いわば代償措置と他の論拠とが一体となって争議権否認の合憲性が裏付けられることになったのである。

現に、岸、天野裁判官の補足意見は、「この代償措置こそは、争議行為を禁止されている公務員の利益を国家的に保障しようとする現実的な制度であり、公務員の争議行為の禁止が違法とされないための強力な支柱なのである……」と述べ、多数意見が、公務員の争議権否認の合憲性を肯定するうえで代償措置に依存する比重が著しく強められていたのである。

五・四判決においては、財政民主主義の照射の下に、公務員・公企体職員の団交権・争議権は憲法二八条の保障の埓外におかれることとなった結果、合憲性の問題として代償措置論はますますその比重を高めたといっても過言ではない。

となれば、代償措置さえ講じておけば、公務員等の争議行為を禁止しても違憲ではないという安易な結論へと接近するのは眼に見える程明らかである。

2 ところで、このように争議権否認の合憲性を根拠付ける代償措置について、いかなる要件を満たせば合憲であり、かつ、現実の代償措置が右の要件に合致するものであるか否かという検討は、四・二五、五・二一、五・四判決いずれにおいてもなされていない。

もともと、憲法解釈論としての代償措置論は、ILOの理論的示唆を受けたものであり、四・二五判決の岸裁判官の追加意見も、「一般的に勤労者の争議行為を禁止するについて、その代償措置が設けられることが極めて重要な意義をもつものであることは、いわゆるドライヤー報告やILO結社の自由委員会でもたびたび強調されているところでもあり……」と述べ結社の自由委員会の報告を引用しており、判例上の代償措置論がILOの理論を採り入れた趣旨のものであることが明らかとされている。

ところでILOが代償措置の内容として想定したのは、「当事者があらゆる段階において参加することができ、またその裁定があらゆる場合、両当事者を拘束する適正にして公正、しかも速やかな調停、仲裁の手続」と「これらの裁定は完全に迅速に実施されるべきである。」(結社の自由委員会第一三九次報告一二二項)という点であった。

そしてILOが両当事者の参加する調停仲裁制度を代償措置の要件としたかといえば、それはストライキの機能に注目し、それとの対応で代償措置を考えたからである。

即ち、スト権が保障されている場合には、交渉が行き詰ったときには、スト権を行使して組合側の交渉力を高め、行き詰まりの打開を図ることができる。それによって組合側は自らの要求の実現を図り、その生存権的利益を確保することが可能となる。ところがスト権を奪われている場合には、使用者の態度が頑強で交渉が行き詰った場合、組合側はその要求の実現ないし反映の方途を失うことになる。代償措置は、まさに右のような場合にストライキが果たすべき役割を代って担うものでなければならないのである。

つまり、その代償は、労使交渉を前提としつつ、行き詰った労使の紛争に適切な解決をつけるための公正な調停仲裁機関でなければならず、組合側の要求を適切に反映するものとなるよう、あらゆる段階での当事者の参加が保障されたものでなければならないのである。

3 とすれば、憲法解釈論としての代償措置の一般的要件は次のようなものにならざるをえない。

(1) 公正な調停、仲裁機関であること。

(2) 当事者のあらゆる段階での参加が制度的に保障されているものであること。

(3) 勧告・仲裁裁定に拘束力が与えられていること。

(4) 機関の構成に公正さが保障されていること。

しかし、この点については、国公法上の人事院制度にせよ、地公法上の人事委員会制度にせよ、あるいは公労法上の公労委制度にせよ、又、地公労法上の地労委制度にせよ、ほとんど右(1)〜(4)の要件を充足せず、「本委員会はストライキの禁止がどの程度労働条件または苦情の救済に関する問題を解決するための満足な代償措置を伴なっているかということを特に慎重に検討した。この目的のための現行の措置が十分であるということについては満足すべき状態から程遠いのである」(ドライヤー報告二一四二項)というのが実情である。

三、五・四判決と地公労一一条一項

1 地公企法の建前と財政民主主義

(1) 最高裁は、これまで少なくとも地公労法一一条一項の憲法二八条適憲性について直接判断を下したことはない。

従って、五・四判決がストレートに地公労法一一条一項の場合にも妥当するか否かについては、地公企法、地公労法の実定法や地公企体職員・現業地方公務員の実態に即した実証的な検討を必要とする。

(2) 地公労法によれば、地方公共団体は地方公営企業の業務を執行させるため「企業管理者」を設置することになっているが(七条)、管理者は地方公営企業の業務を執行し、当該業務の執行に関し当該地方公共団体を代表することになっている(八条)。

そして、管理者の担任する業務内容については、地公企法は、

「一 その権限に属する事務を分掌させるために必要な分課を設けること。

二 職員の任免、給与、勤務時間その他の勤務条件、懲戒、研修及びその他の身分取扱に関する事項を掌理すること。

三 予算の原案を作成し、地方公共団体の長に送付すること。

四 予算に関する説明書を作成し、地方公共団体の長に送付すること。

五 決算を調製し、地方公共団体の長に提出すること。

六 議会の議決を経るべき事件について、その議案の作成に関する資料を作成し、地方公共団体の長に送付すること。

七 当該企業の用に供する資産を取得し、管理し、及び処分すること。

八 契約を結ぶこと。

九 料金又は料金以外の使用料、手数料、分担金若しくは加入金を徴収すること。

十 予算内の支出をするため一時の借入をすること。

十一 出納その他の会計事務を行うこと。

十二 証書及び公文書類を保管すること。

十三 労働協約を結ぶこと。

十四 当該企業に係る行政庁の許可、認可、免許その他の処分で政令で定めるものを受けること。

十五 前各号に掲げるものを除く外、法令又は当該地方公共団体の条例若しくは規則によりその権限に属する事項」(九条)

を規定している。

従って、地方公営企業の管理者は地方公営企業の経営について大幅な裁量・決定権を有しており、この意味で当事者能力は管理者に属するというべきである。

(3) 一方、地方公営企業の財務関係をみると、経理は特別会計でもって処理されることになっているが(一七条)、

「一、その性質上当該地方公営企業の経営に伴う収入をもって充てることが適当でない経費。

二、当該地方公営企業の性質上能率的な経営を行ってもなおその経営に伴う収入のみをもって充てることが客観的に困難であると認められる経費。」

等のいわゆる投資的経費については、地方公共団体の一般会計等から負担されることになっているが、それ以外については当該地方公共企業の経営に伴う収入をもって充てなければならないとして、独立採算制を堅持している(一七条の二)。

その結果、予算については、成程予算の調製権は地方公共団体の長に存するが、しかし、地方公営企業の予算は、「地方公営企業の毎事業年度における業務の予定量並びにこれに関する収入及び支出の大網を定めるものとする。」とし(二四条一項)、しかも予算の原案・説明書の作成権は管理者に属し、収入支出予算の弾力条項として「業務量の増加により地方公営企業の業務のため直接必要な経費に不足を生じたときは、管理者は、当該業務量の増加に因り増加する収入に相当する金額を該企業の業務のため直接必要な経費に使用することができる。」(二四条三項)との規定をも置いている。

(4) なお、地方公営企業の予算は議会の議決を必要としているが、この議決を要するのは款・項の大枠のみである。

(5) 又、五・四判決の基本的な柱は「三公社は法人格こそ国とは別であるが、その資産はすべて国のものであって、憲法八三条に定める財政民主主義の原則上、その資産の処分、運用が国会の議決に基づいて行なわれなければならない」という点にあったが、地方公営企業の用に供する資産の取得、管理及び処分は、管理者が行なうものとされ(三三条一項)、地方自治法九六条一項六号及び七号、同法二三七条二項は適用されず、議会の議決を要しない(四〇条)。

従って、資産の取得及び処分については、長の承認も、議会の議決も個々的には要しないものとされ、管理者の自主性の強化が図られている。

ただ、重要な資産の取得及び処分については毎事業年度の企業運営の目標を定める予算で定めなければならないとし(三三条二項)、議会の民主的統制との調和を図っているにすぎない。

(6) このように、現行地公企法の建前を検討すれば、五・四判決の依拠した財政民主主義論は地方公営企業の実情に直接かつ基本的に妥当しうるものとは到底いえない。

2 地公労法の協約締結権と議会統制

(1) 右にみたように、予算の建前、現実をみても、管理者に広範な裁量と権能が認められているのであるから従って、地方公営企業の労働組合との間で団体交渉の基盤が存立することも容易に肯定できる。

(2) 即ち、地公企法三八条四項は、地方公営企業の職員の給与の種類及び基準は条例で定めることにしているが、これは抽象的なものであって、具体的に賃金その他の労働条件の多くは地公労法七条によって団体交渉の対象にされており、これについては労働協約を締結することができる。現実にも、給与を含め労働時間・休日・休暇等諸々の労働条件は、労使の交渉によって取り決められ、それによってはじめて日常の業務遂行が行なわれているのである。

もっとも労働協約については、条例及び予算による制約があり、団体交渉の相手方である管理者のみでは処理できず、議会による予算措置が伴わなければ右協約も当該地方公共団体を拘束せず、かつそのような協定に基いて資金を支出してはならないのであるが、このような場合も当該地方公共団体の長は、協定締結後一〇日以内に事由を附しこれを議会に付議してその承認を求めなければならないとされているのである(地公労法一〇条)。

こうして、財政的民主主義は協約に対する議会の承認権によって十分その地位を与えられているというべきであり、それ以上に団体交渉のすべての分野にこれを及ぼしたり、争議権そのものの否定にその原理を推し及ぼすことは全くの筋違いだといわざるをえない。

3 そして、代償措置論の問題に関して、企業職員・単純労務職員については、「苦情処理共同調整会議」の設置、労働組合による不当労働行為の救済申立権、地方労働委員会によるあっせん調停、仲裁の制度が地公労法上設けられているが、不当労働行為の申立権を除いて他の措置が有効に機能した事実は全くない。又、代償措置とされる地方労働委員会は、主として一般民間労働組合の不当労働行為救済機関であり、地方公営企業の労使関係について専門の知識、調査能力もなく、到底地公労法上の争議権否認に基づく専門の代償機関とはいえない。

四、小括

このように、原判決が依拠した五・四判決の合憲論の論理は全く理由がないことが判明した以上、改めて地公労法一一条一項について憲法二八条の法意と地公企体の実態に即した憲法判断がなされるべきである。

第二点 原判決が三六協定締結拒否を地方公営企業労働関係法一一条一項に該当する禁止された争議行為と認定した点は、労働基準法三六条・地公労法一一条一項・労働組合法七条の解釈・適用を誤まり、かつ、判例と相反する判断をしたものであって、破棄を免れない。

一、原判決の判示とその問題点

(一) 原判決は、超過勤務に関する三六協定を締結するか否かは、原則として、労働組合ないし労働者の自由に属するところであるから、労働組合が超過勤務自体の労働条件に関する労使間の意見不一致のため、同協定の締結ないしは更新を拒否したとしてもこれをもって直ちに違法とすることはできないが、然らざる場合にはこれを争議行為に該当するとした。

しかし、三六協定を締結するか否かは、所定の八時間労働の枠を超えて、超過労働を提供するか否かという個々の労働者の労働力の処分に関するものであり、それが自由であるというのは何物にも左右されずにその労働力を処分しうる決定権を有しているという意味においてである。先ず、最初に超勤するかしないか、という決定の自由が労働者に保障されているのであり、その決定権は労働組合という団結体を通して集団的・組織的に行使することも可能なのである(労基法三六条が、締結当事者として、労働者の過半数を組織する労働組合、もしくは労働組合のない場合に過半数を代表する者を挙げているのはそのためである)。

従って超勤するか否かについて、原判決のように超勤条件に不一致がなければ三六協定を締結し超勤すべきである等というのであれば、何のための自由か全く意味をなさない。

原判決は、出発点において甚だしい誤まりをおかしているといわざるをえない。

(二) 次いで原判決は、超過勤務の正当性を是認しながら、超過勤務に関する労働条件そのものでなく、労使間の他の紛争についての自己の要求を貫徹する手段として三六協定の締結ないし更新を拒否し、超勤を拒否することは争議行為(同盟罷業)に該当するともいう。

しかし、現行労基法上超過勤務は本来労基法三二条に違反する違法状態なのであって、ただ、三六協定が締結された場合にのみ違法責任の追及が免除されるにすぎないのであり、たとえ超勤が恒常にされていたとしても三六協定の締結を媒介とすることなくして、超勤が正当化されるものではない(違法状態が継続すれば、それが正当化に転化されるという特異な法理論が存在すればそれは別であるが、その際労基法三二条、三六条の強行法規性は一体どうなるのであろうか)。続けて、原判決は、三六協定の締結拒否は争議行為しかも、それは同盟罷業に該るというのであるが、同盟罷業とは労働提供義務の集団拒否であり、先ず労務提供義務があって始めて問題にされる性格のものである。

しかるに、三六協定が存在しなければ、そもそも時間外労務提供義務は発生しないのであり(これが労基法三六条の通説である)、同盟罷業なる観念を容れる余地は全くない。

原判決はこのように基本的な問題について甚々しい誤まりをおかしており、当審での是正は必定であるといわざるをえない。

二、争議行為禁止と三六協定締結拒否の法的評価

1 一般に三六協定があるにもかかわらず、時間外超過労働(残業ないし超勤ともいう)を拒否する形態の斗争等を順法斗争と呼んでいる。

そして、社会的事実としての順法斗争とは、主として他の争議目的の貫徹のための手段としてとられる集団的行為であるが、争議手段として典型的なストライキとことなる点は、義務なき労働力の提供拒否、違法状態における労働力の提供拒否というかたちで行なわれることである。従って通常の順法斗争においては、現象的には一部スト、部分ストの形態をとってあらわれる。順法斗争は、法令順守を理由とする義務なき労働力の提供拒否によって、業務の正常な運営が阻害されることを組合において企図し、その意図の下に他の争議手段にかえてとられる争議形態だとみることができる。それ故社会的事実としては順法斗争は争議行為であるということは一応異論のないところであろう(林迪広「順法斗争の法構造」菊地勇夫教授還暦記念論文集所収三三〇頁)。

しかし、これを労働法上において評価する場合、順法斗争を生ぜしめた契機の特殊性に着目して、法的にも争議行為といえるかどうかについては論議がある。ここに法的という意味は、法律や労働協約によって争議行為が制限禁止されている場合に、法律違反または協約違反としてなんらかの民事的、刑事的責任が生ずるか否かということである。

即ち、本件のような三六協定それ自体の締結を拒否する場合(通常は三六協定の存在を前提としながら、命じられた超勤を拒否する形態が多く、一般に残業拒否ないし時間外労働拒否、あるいは超勤拒否斗争と呼ばれる)と争議行為との関係が法律上の問題となりうるのは、主として、この関係の解明が、いわゆる超勤拒否という集団的行為の正当性、又は適法性の評価の問題の前提となるとともに、かかる斗争に起因する労働者の責任追及の当否の問題と直結するからにほかならない。即ち、民間労組にあっては、残業拒否斗争は協約の平和条項・平和業務又は予告制度に違反する争議行為であるか否かが問題となるが、こと官公労の場合にあっては、超勤拒否斗争→争議行為→禁止規定牴触→違法行為→責任追及という関連性が予定され、超勤拒否斗争を争議行為とみなす否かは、斗争自体の法的評価に重大な関係をもつのである。それ故にここで問題となる「争議行為」とは、すぐれて法的意味におけるそれであって、社会的・経済的にみて争議行為と目される実力行動をただちに全て争議行為であると速断する訳にはいかない。又、その必要もない。

争議行為の概念は、法律において必ずしも同一であるとは限らず、その類型も固定的・限定的に解する必要はない。いわば斗争方式として行なわれた具体的作為態様と関係諸法規とを照合し、個別的・具体的に決定しうべき事柄であり、それぞれの行為の正当性の評価と無関係に抽象的に争議行為の法的概念をなすこと自体困難であり、かつ又不必要である。

以上の観点から――いわば超勤拒否斗争という集団的行為の正当性・適法性、ないし責任追及の当否の前提条件として――かかる斗争形態が争議行為に該当するか否かを考察するにあたっては、いかなる状況のもとで超勤が拒否されたかという点(超勤義務の発生の問題)と、それに適用になる自主規範、諸法規との関連性を具体的に検討する必要がある。

そして、その際決定的に重要なことは、この斗争には争議権の行使というより、労基法上の権利行使とみなすべき領域が存在するという点である。いわば、「具体的な労使関係における正義の所在――及び保障された権利、ことに保護法上の権利――をすら争議効果のために利用せざるをえない実態」を顧慮することによって、使用者当局側がこの斗争を協約違反、又は諸法規違反の「争議行為」と断定し、対抗手段・責任追及を法的になしえない領域をみいだすことができるのであり、これを正当な集団行動・正当行為とみなし、争議行為のカテゴリーから除外すべきである。

2 ところで、労基法上、時間外労働の許容は例外的・臨時的な場合に限定され、かつ、超勤義務も三六協定から直ちに生ずるものではない。

※ この点は通説・判例というべきで、近時にも三六協定は労基法の免罰的効果を生じさせるにすぎず、労働者に時間外労働義務を発生させないとして右義務違反を理由とする解雇を無効とした判決が下されている。

東京地裁八王子支部昭和五四年七月二日東京現像所事件判決は、「使用者は、業務上の必要に基づき従業員に時間外労働をさせる場合は、就業規則の規定があっても、その都度三六協定の範囲内で個々の従業員と具体的な日時、場所、仕事の内容及び時間数等を特定して、時間外労働契約を締結することが必要であって、使用者の具体的な時間外労働の申込に対し従業員が明示又は黙示の承諾をした場合においてのみ、従業員は右合意にかかる日時及び時間数等についてだけ時間外労働義務を負うものというべきである。……

この場合、使用者の時間外労働命令は単なる時間外労働の申込にすぎないという外ないから、右申込に対し承諾するか否かは個々の従業員が自由にこれを決定しうるところであって、右申込を拒否するにつき相当の理由があること又は右拒否の理由を使用者に告知することを要するものではないことはいうまでもない。」(労旬九八二号五一頁以下)と判示したが、結論的において全く正当である。

従って、三六協定がなければ時間外労働(超勤)義務はそもそも問題にさえならない。

とすると、超勤の拒否によって業務の正常な運営が阻害されるという現象も例外的なはずであり、さもなければ労基法に違反する状態が業務運営の前提となっていることが予想されうるのであり、通常の同盟罷業におけるような阻害現象とは法的にはおもむきを異にするはずである。そして当然のことながら、使用者当局が超勤拒否に対する対抗手段なり責任追及をなす場合の前提として、これを「争議行為」に該当すると主張しうる可能性も限定されてくる。即ち、超勤拒否を正当な権利行使ではなく、いわゆる争議行為に該当するというためには、

(イ) 適法に生じている超勤義務に反し、

(ロ) そのために法的にも正常な業務の運営が阻害された、

ということの証明を要する。

かかる立場から、超勤拒否という具体的形態を法的に評価するに当っては、正当な権利行使・正当行為に属するものについては、これは争議行為のカテゴリーからはずし、前記(イ)・(ロ)の二要件を充足し、従って争議行為と目されるもののみをその場に適用になる関係諸法規と照合し、正当性・適法性・責任性等を、その時点における具体的労使関係に即応して、流動的・相対的に考察することになる。

要するに、超勤拒否という特殊性に重点を置くことによって、正当行為・正当な権利行使の領域を承認し、違法性・責任性阻却の問題は、「争議行為」に該当するものについて具体的に考察する、といった二元的考察方法をすべきである(山本吉人「労働時間制の法理論」一七二頁以下)。

三、三六協定締結拒否と本件処分の不当労働行為性

(一) 超勤義務の不存在

本件第一波・第二波の実力行使の主たる手段・方法は三六協定の締結自体を拒否したものであった。

しかし、この場合にあっても、そもそも超勤義務が生ずるか否かという面から考察を進めるべきであり、三六協定の存しないところ超勤義務の生ずるはずはなく、又使用者当局側に残業を命令する根拠は発生しない。三六協定を締結するか否かは原判決指摘のとおり労働者側の自由であり、いわば「適法な自由の取引の範囲内にある行為」(野村平爾「労働関係調整法」法律学全集四八巻一〇六頁)となる。

とすれば、本来労働者に超勤義務が発生していないのであるから、争議行為のカテゴリーに容れることは不可能である。

所定労働時間を超えて超勤するか否かは、労働者個々人が自由にその労働力を処分すべき次元の問題であり、それを離れて法に定められた要件さえ充足せられていないのに残業が強制されるとすれば、それは憲法一八条「意に反する苦役禁止」にも違背することになる。

(二) 三六協定締結拒否と正常な業務運営の阻害について

1 又、業務の正常な運営とは適法な運営を意味し、法的保護に値するものでなければならない。

労働契約上の義務のない業務につくべき業務命令に従わないことは公労法一七条に禁止されている「争議行為」に当らない(東京地裁昭和三四年四月一一日全電通千代田丸事件判決、同最高裁第三小法廷昭和四三年一二月二四日判決)。けだし、ここでいう「争議行為」とは「契約上使用者がなす業務の正常な運営のための労働力に対する指揮命令に違反する行為を指す」からである(岡山地裁昭和三六年六月二三日国労岡山地本事件判決)。

なお、全体の奉仕者性を要求されている公務員といえども、無定量の労働義務を負っているのではなく、勤務時間については法律(現業公務員の場合は労働協約ないし就業規則)に明確な定めがあり、服務に定量性の認められていることは疑いがない。

それ故に、公務員の労働義務は法定されている勤務時間内に限定されており、その例外である超過労働は適法な業務命令による場合に限ってのみ義務付けられる。

その意味で、三六協定の締結を拒否したことは労働者側の正当な権利行使・正当行為に属し(三六協定なくして残業に服する義務はないことの宣言)、正常な業務運営を阻害したという点で禁止された「争議行為」のカテゴリーにあてはまらないことは多くの学説の指摘するところであり、ほぼ争いのない問題といえる。

それ故、従来、他の都市交通局にあっても三六協定締結拒否を理由に懲戒処分がなされた事実など見当らないのである。

2 然るに、原判決は、上告人組合も加ったダイヤ編成審議会の審議を経て超勤ダイヤが編成され、超勤が恒常化(正当性)され、超勤拒否があれば平常のダイヤ運行に来たす状況にあったから、三六協定締結拒否は、被上告人の交通業務の正常な運営を阻害するものとして地公労法一一条一項の禁止する争議行為に該当するという。

(1) しかし、ダイヤ審議会で一日九勤務について超勤ダイヤが編成され、その審議に上告人組合が加っていたとしても、右ダイヤ審議会はどのように考えても労基法三六条に定められた時間外労働協定の性格を有するものではないし、又それに代置しうるものでもない。

けだし、ダイヤ審議会はそもそも業務運営上設けられたものであり、超勤ダイヤも被上告人の要員不足から業務運営上、不正常な対策として設けられたものである。

しかるに、三六協定を締結して超勤に応ずるか否かは個々の労働者の労働条件(労働時間)にかかわるものであり、自ずから事柄の性質を異にするものであって、超勤が可能か否かは三六協定の締結と個別労働者の承諾という要件を充足する必要があるのである。

(2) さらに、原判決は、超勤の恒常化(=正当性)を認めながら、三六協定の締結を拒否することは業務の正常な運営を阻害するというのであるが、労基法は例外的に三六協定が結ばれた場合についてのみ、たとえ超勤が恒常的事態になったとしても、これを法の枠内にあるものとして許容する態度を採っているのである。

三六協定の存在しない超勤の恒常化なるものは労基法が絶対に許容しない事態であり、正当性なる概念を容れる余地は全く存しない。

労基法三二条の八時間労働原則に違反する超勤は、そもそも予定しない違法状態であり(労基法は労働条件の最低基準を定めるものであるから)例外的に三六協定が存在する限り、超勤に対する法的非難が免責されるだけなのである。

原判決が、超勤の恒常化を正当性とイコールに置き換えたところに、労基法の労働時間原則に対する無知・無理解が白日の下にさらけ出されたといってよい。

(3) なお、上告人組合も加ったダイヤ審議会で超勤ダイヤが編成されたという点についても、これは超勤を含むようなダイヤを編成したことを組合側から非難できないし、又、当局側からしても超勤ダイヤを認めながら三六協定を締結しないのは不愉快である。あるいは「けしからん」という感情の表現に留まるものであって、それ以上に、三六協定を締結しないことが地公労法一一条一項の禁止された争議行為に該当するか否かという法的な問題に発展するものではない。

3 従来の高裁判決においても、超勤の恒常化がたとえあったにせよ、三六協定がない以上、時間外勤務命令を拒否したとしても、地公労法一一条一項に禁止された争議行為に該らないとしており、これが通説・判例であって、原判決はこの点において判例と相反する判断をなした誤まりがある。

即ち、東京高裁昭和四三年四月二六日東水労時間外労働拒否事件判決は次のように判示した(労民一九巻二号六二三頁)。

「控訴人主張のように時間外勤務を必要とする事情が存在していたことは認められるとはいえ、北一支所の職員に対し法に定めた三六協定をしないで時間外勤務を命じ就労を強制することは許されないものと解するのが相当で、原判決の理由中に説示するとおり三六協定なしに時間外勤務をなす慣行が行なわれており就労の必要があったとしても右命令に反する行為を目して地公労法第十一条第一項に該当するものと解することはできない。控訴人は北一支所の職員に対する時間外勤務に就労を命じた職務命令が違法のものであっても、その命令当時においては、その違法なことは、しかく明白ではなかったから、職員はこれに従う義務があったと云うけれども、三六協定がないのに、職務命令を以て時間外労働を命じ得ないものである以上、違法性の明白なると否とを問わず(控訴人は職務命令が行政行為であると考えてのことであるが)その命令に従う義務を法律上認めることはできない。

上叙事情の下に被控訴人等が控訴人主張のとおり就労阻止の行為をなしたとしても労働組合の適法な主張を貫徹するために組合員としての組合活動をしたにすぎないものと云うべきところ被控訴人等四名は北一支部結成当時からの役員であり、今回の就労拒否のために処分されたのは右各四名のみであること(右事実は当審における被控訴人関町本人尋問の結果によって認められる)を合せ考えると控訴人の本件解雇は被控訴人等の組合活動を原因とする不当労働行為に該当する無効のものというべきである。」

(三) とすれば、本件第一波・第二波の三六協定締結拒否をも理由とした訴外中島らに対する本件処分は、本来労基法上の権利行使として正当な行為と目されるべきものに対して不利益な取扱(懲戒処分)をなしたものであるから、労組法七条一号に該当する不当労働行為といわざるを得ない。

そして、たとえ第三波の実力行使等につき何らかの懲戒処分がなされうるとしても、本件処分は正当とされる第一波・二波の実力行使を処分理由としており、又、本件処分は三波にわたる実力行使を全体として不可分一体のものとしてなされているので、結局本件処分全体を不当労働行為として取り消さざるを得ない。

右に述べたとおり原判決には、地公労法一一条一項、労基法三六条・労組法七条の解釈適用を誤った違法があり、破棄されるべきである。

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